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 悪い夢の中に投げ込まれて、その中からやっとの思いで這い出

してきた――目を覚ました時は、そんな気分だった。体中に気持

ちの悪い汗をかいているし、少しも疲れが取れたように感じな

い。何より、目が覚めても、まだ夢の続きを見ているような感じ

がしてならなかった。目が覚めたのは、誰かが自分を呼んだから

だ。あれは、夢だったのだろうか。確かに誰かに呼ばれたような

気がしたのだが。まさかと思って摩耶の顔を覗き込んだが、子供

は静かに目を閉じたまま、普段と変わる所は無い。はっとして顔

を上げると、瑠璃がこちらの方に顔を向けている。人形の口が動

くのをさやかは見た。

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「さやか、外の光が眩しいわ」

 確かに驚きはしたが、驚くほどのことでもないような気もし

 

 

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た。さやかは平静を装い、のろのろと立ち上った。外はどんより

と曇っていて、陽の光が差しているわけでもない。さやかは言わ

れるがまま、カーテンを閉め、人形の乗った椅子を抱えて部屋の

奥の方へ運んだ。

「うなされていたみたいね」と瑠璃はいう。「赤ちゃんは私が見

てたけど、お尻を濡らしてるからおしめを取り替えてあげて」

「ずっと見ててくれたの? どう思う? あの子のこと」

「可愛い子ね」瑠璃はそれだけ言って、考え込むように下を向い

た。

 摩耶のおむつを取り替えたりミルクを飲ませたりしているさ

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やかを、瑠璃はじっと眺めているようだった。部屋の隅から投げ

掛けられる鋭い視線は、さやかの背すじに落ちる冷たい滴のよう

 

 

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だ。

「なぜ私のことをそんな目で見るの?」

 さやかは我慢できなくなって、瑠璃に非難がましい言葉を投げ

るが、「別に」と答えて、その時だけ瑠璃は目を逸らす。

「さやか、あなた、何か忘れてるんじゃないの?」暫くしてから

瑠璃はぽつりと言った。

「何のこと?」

「旦那さんからの手紙。まだ投函してないわよ」

 言われてみればその通りだった。書いている途中から人形の創

作を始め、そのまますっかり忘れてしまっていたのだった。

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「そうね。だけど、彼から来た手紙、どこにいったのか分からな

いのよ。きっと、捨てちゃったんじゃないかな、他のダイレクト

 

 

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メールと一緒に。あれが無いとうちの人が泊まってるホテルの住

所が分からないのよ」

「それなら、キッチンのテーブルの上にある新聞の間に挟まって

るわ。あなたの書きかけの手紙も一緒にね」

さやかは少し恐くなって瑠璃を見た。

「どうして、そんな言い訳をするの?」人形は皮肉な笑顔を浮か

べた。「あなたは手紙を出したくないと思っているだけなのよ、

違う?」

「変なこと言わないで。一体、あなたに何が分かるっていうの? 

何を書けばいいのか分からないだけよ」さやかは自分の声に言い

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訳じみた響きがあるのに気がついて、戸惑いを感じた。「だって

毎日がこんな調子なんだもの」

 

 

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「夕べ見た夢のことでも書けば?」

「何が言いたいの? 夢のことなんか覚えてないわよ」

 瑠璃は何も答えようとせず、ふっと黙りこんでしまう。と同時

に、目には見えない光が消えるように、その顔に浮かんでいた表

情が無くなり、塗料を塗り重ねただけの作り物の顔が現れた。

さやかは瑠璃の言葉を無視しようとした。が、瑠璃が生気を失っ

たまま、再び表情を表そうとしないのを見ると、何か自分が悪い

ことをしたような気がしてきた。ペンと便箋を持って、階下のキ

ッチンに降りて行く。人形を作るために、テーブルの上にあった

ものは何もかも一緒くたにされて、隅に積み重ねられている。そ

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の束をばらばらと繰っていくと、瑠璃の言った通り、夫からの手

紙や、自分が書きかけた手紙が新聞の間から出てきた。

 

 

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一体、夫に何を書いて知らせればいいのだろう。夫からの手紙を

読み返しながら、さやかは思う。夢の話ですって? あの夢、あ

れは一体なんの光景だったのだろう。

 目を開けると、誰かが自分のことを見おろすようにして覗き込

んでいる。理由の分からない恐怖で体が震える。覗き込んでいる

のは二人の男女で、さやかの何倍もの大きさに見える。というこ

とは、自分はそんなにも小さな子供だということなのだろうか。

その二人の強い口調からすると、喋っているのではなく罵り合っ

ているらしい。けれども、何と言っているのかは分からない。ぼ

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んやり見えていたものに焦点が合ってくるにつれて、その二人が

誰なのか分かる。片方は大嫌いだった父親だが、さやかの記憶に

 

 

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ある父親よりずっと若く見える。もう一人は人間ではない。それ

は瑠璃だった。その巨大な人形は、さやかの父親に向かって、何

か喋っている。ガラスの目、ぎりぎり音をたてる球形の関節、体

の表面に無数に走るやすりの跡が、拡大鏡を通してみているかの

ように見える。

突然、人形は父親につかみかかり、父親は人形を思いきり叩く。

瑠璃は文字通り、人形のように部屋の隅に崩れ落ちる。さやかは

叫び声を上げようとして力を振り絞るが、言葉にはならない。た

だ、泣き声を上げるだけだ。

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 夢の話なんか手紙に書いてどうしようというのだろう。自分の

妻の頭がおかしくなったと、夫を心配させるだけの話だ。書きか

 

 

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けの手紙は、確か、妖精物語の一節の途中になっていたはずだ。

妖精物語を手紙に書くというのも普通だとは言えないかもしれ

ないが、ばかみたいな夢の話よりも、少しはましだろう。

さやかは書きかけの手紙の束を取り、続きを書こうとその最後の

部分に目をやった。さやかの知っている取り替え子の物語は、め

でたし、めでたし、で終わる。つまり、母親が真っ赤に焼けた火

掻き棒を持って飛び掛かろうとした時、誤って転んでしまい、再

び立ち上がった時には、本当の自分の赤ちゃんが戻っている、と

いうものだ。自分の書いた最後の行はこうだった。

「……その時、母親は火掻き棒を握りしめ、子鬼の喉を狙って飛

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び掛かるのです。」

 しかし、その手紙はそこで終わってはいなかった。これは本当

 

 

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に自分が書いたものなのだろうか。乱雑な字で、その物語の続き

が書き連ねてあったのだ。

「その真っ赤に焼けた火掻き棒は子鬼の喉に突き刺さりまし

た。血が音を上げて飛び散り、白い蒸気が喉から吹き出しまし

た。母親は後ろに飛び退き、子鬼はそのまま揺りかごの中に倒れ

ました。母親はこわごわ揺りかごの中を覗き込みました。すると

そこには、ふくよかな自分の赤ちゃんが、喉に致命傷を負って息

絶えていたのです。絶望に崩れ落ちる母親の耳に笑い声が響きま

す。そして、その不気味な笑い声は、まさに自分が発しているの

だと、母親は気が付くのです。

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 結局、母親は自分の子供を殺してしまいました。そして、私も

あの子を殺してしまうかもしれません。私もあの子を殺してしま

 

 

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うかも……」

 連想の跡が、次第にぼんやりした形になっていった。摩耶が危

ない。そう思った瞬間、さやかはキッチンを飛び出していた。

 摩耶の寝ている部屋は薄暗く、一見すると何も変わった所が無

いように思われた。ただ一点、椅子に座らせておいた瑠璃の姿が

無くなっているということを除けば。ベッドを覗きこむと、摩耶

はさやかの気配に反応するでもなく、静かに目を閉じ、ゆったり

した呼吸を繰り返している。カーテンの隙間から弱い光が差し込

んでいる。もう夕方だった。瑠璃に眩しいと言われて、カーテン

を一日閉めたままにしてしまった。そんなに長い時間、自分は何

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をしていたのだろう。薄暗い部屋でひとりぼっちにして、摩耶に

は可哀そうな事をしてしまった。

 

 

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 さやかはベッドに寄って、摩耶を抱き上げた。が、その体は妙

に細く、軽いような気がした。摩耶はされるがまま、体をさやか

の腕に預ける。が、その時、摩耶の目が大きく見開かれ、さやか

はあっと声を上げそうになった。その瞳、瑠璃色をした瞳が冷た

い光を放っている。同時に背中から脇腹にかけて、さやかは氷を

押しつけられたような感覚を覚えた。その冷たさが瞬時に焼ける

ような痛みに変わっていく。首をねじ曲げて自分の背中を見る

と、服ごと皮膚が切り裂かれ、そこから血が吹き出していた。そ

して、さやかの背中の方に回された摩耶の細長い腕は、関節がぎ

りぎりと音を立て、手に剃刀を握りしめている。その小さな手が

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再び襲い掛かろうとするように、大きく振り上げられるのをさや

かは見た。

 

 

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 さやかは叫び声を発して、反射的に摩耶の体を放り出した。し

まったと思ったが遅かった。摩耶の背後に鈍い光が閃き、一瞬、

時間が止まったような気がした。壁に向かってぶつかっていく摩

耶を待つ鉄の鉤――フックが見えた。次の瞬間、摩耶は鈎に突き

刺さり、そのまま壁の上で宙吊りになるかに見えたが、やがて、

どさりと音をたてて床に落ちてきた。

 もう終わりだと思った。さやかの耳に自分自身の笑い声が聞こ

えてくる。失われていく意識の最後に、さやかが見たもの、それ

は、一矢を報いようと残った力を振り絞り、剃刀を手になおも立

ち上がろうとする愛しい娘の姿だった。

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第六節 ( p.59 - p.69 ) →