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 巨大な人影が、さやかの顔を覗き込んでいる。全身の力が抜け

て、もう何も感じることができない。もう駄目かもしれない、私

も、子供も。そんな考えが頭を掠めていく。そもそもの最初から、

私みたいな人間は生まれてこない方が良かったのだ。漠然とした

怒りに気持ちが歪む。ぼんやりしていた焦点が合うにつれて、自

分を見ているのが瑠璃だと分かる。その表情がどこまでも優しい

ので、眺めていると安心する。しかし、さやかは怒りに身を任せ

るがまま、そちらの方を見ようとはしない。瑠璃の、ガラスの目

からはみるみる涙がこぼれてきて、さやかの上に花びらのように

降りかかる。

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ふっと目の前から瑠璃がいなくなる。そして、誰かが玄関から出

ていく音がする。そして、部屋は静かになる。自分が何か取り返

 

 

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しのつかないことをしてしまったような気がする。彼女は行って

しまった。永遠に。柱時計の音が、廊下から聞こえてくる。しか

し、あれは十年前に壊れてしまった柱時計の音だ。台所からは夕

食の匂いが漂ってくる。おばあちゃんの作る夕食の匂いが。おば

あちゃんが亡くなってからは何年が経ったのだろう。おばあちゃ

んは優しかったけれど、私から見れば、許し難い過ちを犯した人

だった。でも、あの人はそれに気がつかないまま、死んでしまっ

た。しかし、古い家の畳の匂いも、黒光りする柱も、今となって

は何もかもが懐かしい。妙に静かな部屋の中を、小さなさやかは

歩き回った。

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「お母さんは? お母さんはどこに行ったの?」

 尋ねても、誰も答えてはくれない。小さいながらも、聞いては

 

 

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いけないことを聞いてしまったらしいと分かる。いつしか、さや

かは何もかも諦めてしまった。お母さんは、すぐ帰ってくるって

思ってた。それなのに、どうして、こんなに時間だけが経ってし

まったのだろう。

 何も解決しないのに、時間だけが過ぎてしまった。私は、見た

目には普通に成長し、普通に学校を卒業したけれど、それも一種

の綱渡りで、足を踏み外さなかったのはただの偶然ではないだろ

うか。結婚だって、人並みにはできないと思っていたが、請われ

るがままに、何となく結婚してしまった。――それは、夫を愛し

ていないという意味じゃない。しかし、やはりこれではいけなか

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ったのだ。表面ばかりを繕って、恐怖や不安に支配されていた自

分を誤魔化そうとしても、私の赤ちゃんは、はっきりそれを知っ

 

 

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ていて、異を唱え、私に反抗したのだ。子供は何とか生まれてき

たが、その心は閉ざされたままだ。そして、私はその傍で疲れ果

て、切れぎれの眠りを貪っている。いつか、目が覚めた時、奇跡

が起こって、この悪夢が跡形も無く消え去っていることを願いな

がら。

 目を覚ました時、さやかはベッドの上に置いた頭を腕の中に埋

めて、床に座り込んでいた。傍らでは摩耶がすやすやと寝息をた

てている。開いたままになっていたカーテンから、透き通った日

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光が差し込んでくる。ここ何週間か続いた日と少し様子が違うよ

うだ。床に当たった日光が暖かく、青く色を塗った壁にきらきら

 

 

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と反射している。

 壁に取付けたコートフックの、鈍い金属の色が、最初にさやか

の目を捉えた。フックの下には、人形が、もう人形とも呼べない

ような姿で転がっていた。体が割れて、手足もばらばらになって

いる。一体、何が起こったのだろう、とさやかは思う。きっと、

自分が眠っている間に、人形は椅子から落ちて壊れてしまったに

違いない。それにしてもひどい壊れ方だ。まるで、誰かが壁に投

げつけたみたいだ。ぼろぼろの破片を拾っていると、中に剃刀が

紛れていて、指先を少し傷つけてしまった。残骸を手に取って仔

細に調べてみた。体中のあちこちがひび割れて、塗料もぼろぼろ

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にはげている。結局、時間を掛けず、ドライヤーなどで一気に乾

かしたのがいけなかったに違いない。時間を掛けて、丁寧にやら

 

 

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なければ、難しい球体関節人形なんかできるはずはない。顔の部

分などは、完全に潰れてしまっている。その人形がどんな顔をし

ていたのか、もう思い出すのも難しくなっていた。いつかまた人

形を作りたくなる時が来る。そう思いながら、片付け始めた。使

えそうなものは拾い集めて、また木箱に戻す。そんなことをして

いる内に、徐々に明るさを増していく外の光で、木箱の中にある

ブリキの箱に気が付いた。

 ブリキの箱の中には、古い写真が無造作に入っていた。殆どは

子供の頃の写真だった。その中でも、特に古い何枚かは色褪せ、

紙も黄ばんでいる。中に一枚、今の自分と同じ位の歳の女性が写

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っている写真がある。明るい色をした流れるような髪、細く切れ

長な目。透き通るように白い肌をしているのが、退色した写真か

 

 

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らも分かる。写真の中の彼女はどこか悲しそうで、笑うことを忘

れてしまっているかのようだ。少女のようにほっそりとした手足

の線は、自分にそっくりだと思った。

「お母さんだ」とさやかは呟いた。ごく早い時期に母親が家を出

てしまった――理由はさやかにも分からない――ので、自分にと

っての母親は、体の温もりや重みのない、写真の中だけの存在だ

った。人形か何かと同じ、この人を憎むことすらできなかった、

とさやかはぼんやりと考えていた。が、どうしてかその時、不意

に母親の体の感触を思い出した。

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 小さなさやかは息を切らして、通りに面した引き戸から庭に駆

け込む。近所の悪戯な男の子たちから逃げてきたのだ。しゃぼん

 

 

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玉を飛ばして遊んでいた彼らが、さやかの顔に石鹸水を掛けたか

ら、目がひりひり痛んで殆ど前が見えない。なぜ自分がいじめら

れるのか、さやかには分からない。時々、心無い噂をする大人が

いるらしいということは薄々知っているが、それと関係があるの

もしれない。さやかの顔にしゃぼん玉を吹きかけてやろうと、男

の子たちは逃げても追いかけてくる。

 庭の日溜まりで、母親が洗濯物を干している。さやかは駆け寄

って母親の膝に顔を押しつけると、口惜しくて声を出して泣く。

母親は困ったような顔をして、何も言わず、さやかの頭を撫で

る。泣くだけ泣いて涙が止まっても、さやかはそのまま母の膝に

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顔を埋めている。

 母親は何か、慰めるようなことを言う。しかし、さやかはその

 

 

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時、本当の幸福を感じていた。日溜まりの中、母親の柔らかな体

に顔を押し付けていると、体がぽかぽかする。母親はどこまでも

優しくて、輝くように美しかった。自分を愛してくれていると、

本当に信じることができた。恐い男の子たちもここまでは追って

来られない。このまま時間が止まってしまえばいい、この信じら

れない程の幸福な気分が、このままいつまでも続けばいいと思っ

た。もう何も恐いものは無かった。例え、男の子たちに「お前に

は***の血が流れてる」と言われたとしても。

「ほら、見てごらん、摩耶のおばあちゃんだよ」

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 勿論、摩耶に見せたからといって何か反応を期待したわけでは

なかった。が、その時、摩耶は、あはは、と声を出して笑ったの

 

 

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だ。さやかは腰を抜かすほど驚いた。暫く口を閉じることができ

なかったが、もう一度、その写真を摩耶の目の方向に持って行っ

て、

「もう一回、見てごらん、摩耶のおばあちゃんだよ」

 と話してみた。摩耶は不思議そうに写真とさやかを見比べてい

たが、また声をだして笑った。その声は力強く、さあ、これから

頑張るわよ、というような響きがあった。少し生まれるのが早す

ぎたから、その分、今までは眠ってただけなんだから、と言って

いるかのようだった。外の光を眺めようとする、その瞳にはきら

めくような叡智が宿っている。摩耶の目を覗き込みながら、さや

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かは思った。きっと、この子はすごい美人になるわ。それに、と

ても頭が良さそう。今日は天気もいいから、子供を連れて外に散

 

 

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歩に行こう。ずっと天気の悪い日が続いていたけど、この先は晴

れの日が続くに違いない。

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