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 郵便受けの中に夫からの手紙が入っていた。彼は電話というも

のが嫌いだったが、その代わりにこうして手紙を書いてくる。出

張先の外国の様子を細々と記した後、さやかや摩耶の様子を尋ね

てある。さやかは、すぐに返事を書き始めた。摩耶のことはあん

まり書きたくなかった。特に何も心配することはありません、と

だけ書いたが、勿論、それだけというわけにはいかない。付け加

えて、「最近、考えたのですが」と前置きして、姉と人形の話を

したことを書き始めた。姉は、さやかが昔つくった妖精の人形を

見て「小人たち」と呼ぶこと。それはそれでいいのだが、その人

形の意味を今でも話していないこと。話しても、何となく分かっ

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て貰えそうにないと思っていること。

「……つまり、妖精とは、キリスト教によって退けられた土着信

 

 

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仰の神々のことなのです。だから、神学によって武装し、正当を

主張する宗教によって、抑圧された私たちの心だということもで

きるのです。それが私たちの心であるなら、妖精が何も可愛らし

いものばかりではないということになるのは当然のことです。背

中に蝶の羽を生やして、遊ぶ小人たちばかりが妖精なのではあり

ません。民間伝承では、しばしば妖精と幽霊は同じものなので

す。つまり、妖精とは救われるほど善良ではないが、地獄に堕ち

るほど悪くもない、地上をさまよう魂のことなのです。

 妖精のことを伝える民間伝承の中には、取り替え子(チェンジ

リング)に関するものが数多くあります。妖精が人間の赤ちゃん

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を偽物(人形みたいなもの)と取り替えたり、自分がその赤ちゃ

んになりすますというものですが、これなどは何を表しているの

 

 

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でしょう。最近、時々そんなことを考えるんです。記憶に残って

いる話を簡単にしてみましょうか。

 ある時、ふくよかな赤ちゃんが、一夜にして、しなびた気味悪

い様子に変わってしまいました。妖精の仕業ではないかと悩んだ

母親は、霊能者に相談し、その助言を実行しようとします。まず、

その母親は大きな鍋の水を沸騰させ、卵の殻をその中に入れるの

です。母親のすることをじっと見ていた赤ん坊は、一体、何を煮

ているの、と尋ねました。生まれたばかりの赤ん坊がそんな口を

利くははずがありませんから、これは間違いなく妖精に違いない

と思った母親は、一方で火掻き棒を真っ赤になるまで熱しておい

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て、卵の殻を煮ているんだよ、と答えました。すると、揺りかご

から子鬼が立ち上がり、俺は五百年生きてきたが、卵の殻を煮る

 

 

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など聞いたことがない、と言ったのです。その時、母親は火掻き

棒を握りしめ、子鬼の喉を狙って飛び掛かるのです。」

 結婚してここに引っ越して来た時、実家の自分の部屋にあった

がらくたは、ひとまとめに木箱に入れて運んだはずだ。そう思い

ながら、物入れの中を引っ掻きまわして、その木箱を見つけ、中

から創作人形の写真集を取り出した。民話の妖精物語から題材を

取っているというが、久しぶりに眺めるそれは、人形の写真集と

いうよりも死体の写真集のように見えた。作者は人形作家である

前に、前衛芸術家であるというが、確実に死体を意識しているに

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違いなかった。この人形たちを作った人の心の中はどうなってい

るのだろう。妖精たちが人形という形をとって、狂気と幻想の中

 

 

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に遊んでいる。そのどれもが、気紛れや偶然によって産み落とさ

れた奇形の姿をしている。肉体に対する偏執的で歪んだ愛、とい

うよりも、もしかしたら憎悪に近いものが見え隠れしている。高

校生くらいの頃、今よりずっと感受性が強かったに違いない頃

に、自分がその本を繰り返し眺めた理由が何となく分かった。隙

間から覗く闇の奥に惹きつけられるのだ。

 その創作風景と題された一連の写真。風景といいながら、悪意

とも言えるような作為に満ちた写真の数々。――関節の所でばら

ばらにされた腕。腕や頭を外された女の体が、こちらに向けて尻

を突き出している。割られた胴からプラスティックの赤ん坊が顔

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を覗かせる。女の頭は作業台の上に置かれ、静かな表情を浮かべ

ているが、目の部分はくりぬかれ、空洞が覗き、半開きの口から

 

 

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は無数の蟻が出入りする。

 いつまでも眺めていると、やがて自分の中から何かが生まれ出

ようとしているのを感じた。さやかは本から顔を上げた。いつの

間にか雨は止んでいて、カーテンの間から、薄い雲を通して満月

が見える。青白い顔で、ひっそりと、それは土手のすぐ上からさ

やかを盗み見ているようだった。さやかは魅入られたように、そ

の月を見詰めた。周囲の世界は、月の投げ掛ける光の中に閉じ込

められ、時間も止まっているかのようだ。人間の耳には聴こえな

い低い音が、その圧力を増していくのを体に感じる。土手の向こ

う側で何かが高まり、溢れ出ようとする。

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 やるべきことは分かっている。衝動のおもむくまま、さやかは

写真集の入っていた木箱の中を引っかき回した。その中には、以

 

 

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前、人形の創作をしていたとき使っていた様々な材料、そして、

作りかけの人形の一部が入っていた。新しい人形を作りたい。何

か、邪悪なものから自分を守ってくれるものを。作るべきものの

姿が、自然に頭に浮んできた。思い描いたのは、ひとりの女性の

姿だった。明るい色をした流れるような髪、細く切れ長な目。目

は叡智に輝いているが、笑うことを忘れてしまったかのような悲

しい色を浮かべている。成熟した色香を漂わせつつも、手足の線

はほっそりして、少女を思わせる。透き通るように白い肌が凛と

して、犯しがたい雰囲気を漂わせる。この世の出来事をその気高

い無関心で撥ね付けるかのように。

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 作るなら、球体関節人形がいい。以前、作ろうとして、一度、

失敗してしまったが、それが幸いして、今ここに材料だけは揃っ

 

 

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ている。材料と共に、木箱には、昔、自分で書いた設計図が畳ま

れて入っていた。頭の大きさは十センチ位、八頭身の少女として

設計したものだ。この時がくるのをずっと前から準備していたよ

うな感じがした。

 キッチンに木粘土と石塑を持ち込み、それを練って薄く伸ば

す。そうしてできた、いわば人形の皮膚をスチロールの原形に巻

き付け、腕や足から作り始めた。スチロールの原形や関節部分の

球体は、以前、人形を創作しようとしたとき使用したものをその

まま使うことができる。既に出来上がっている人形の一部も利用

できる。頭部の型も既にあるし、指のついた手足も揃っている。

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難しいのは、全く新しく作らなければならない所、つまり、体や

顔の肉付け、手足を繋ぐ部分だけだ。肉体の全ての関節部分は後

 

 

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で自由に動かせるよう、胴体の関節受けと、手足の球形関節で繋

ぐようにしなければならない。関節部分が固まるまでの時間を利

用して、のっぺりした胴体に肉付けをしていく。やがて、乳房や、

その下に浮き出た肋骨、下腹部の曲線までが、盛り付けられ、ナ

イフで刻み込まれた。頭にガラス製の目を埋め込み、顔形を丁寧

に整える。ナイフで目を切ると、そこに瑠璃(るり)色の瞳が現れ

た。ドライヤーを使って乾かすのもそこそこに、透き通るような

肌の感じが出るまで、やすりを掛け、色を塗る。植え付けられた

髪は、波打ちながら腰の所まで流れていく。最後に首と胴、手足

をゴムで繋いでいく。

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 こうしてできた人形は、どこか超自然的な何物かのようである

と同時に、妙な懐かしさを覚えるものだった。張りつめた肌や少

 

 

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女のような手足の線、それでいながら、随所に成熟した官能が漂

っている。人形はその体を無防備に投げ出してはいるが、顔の表

情はどこまでも静かだった。

 冷たい色をした目が、じっとさやかのことを見詰めている。さ

やかのことを何もかも知っていると、その目は言っているかのよ

うだった。何か自分のことでも話してみたくなる。さやかは人形

を、その目の色に因んで「瑠璃」と名付けることにした。瑠璃の、

その目に見詰められ、落ち着かなくなって、周囲を見回したりし

ている自分に気が付いた。日常が除々に戻ってくる。人形を作り

始めてからどの位の時間が過ぎたのか、よく分からなかった。今

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が昼なのか、夜なのかさえも。もしかしたら、何日という単位で

時間が失われているのかもしれない。キッチンには窓が無かった

 

 

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し、昼と夜の区別の無い摩耶に合わせる生活が続いていたので、

さやかの感覚も実際の時間とは擦れが生じていたのだ。この所、

雨の日が続いていたので、昼間でも電気はつけたままになってい

た。天気のせいよ、私が悪いんじゃない。さやかは胸の内で言い

訳をする。もっとも、摩耶の方は時間を置いて世話をして貰えれ

ば、何も文句があるようには見えなかった。

 瑠璃を抱えて、さやかは摩耶の部屋に上がって行った。カーテ

ンの隙間から明かりが差し込んでいる。カーテンを開けてみる

と、丁度、夜が明けようとしている所だった。雨は降っていなか

った。風景は黒く見えるが、空の際から白々とした光が広がって

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いる。そして、中天には透き通るような月が掛かっていた。窓を

開け、澄んだ空気を胸に吸い込む。そのまま目を閉じると、体中

 

 

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の神経に冷気が伝わっていくのが分かる。

 さやかは窓際の椅子に瑠璃を座らせ、何か着る物が必要ね、と

声に出して話しかけた。裸のままで置いておくわけにもいかない

ような気がして、スカーフで人形の体を包んだ。今度、着る物を

作るから、それまで少し待ってて。その前に私も少し休まなきゃ

いけないから。少しの間だから、辛抱してね。

 そう言って髪を撫でると、瑠璃はさやかの手の動きにつれて、

ゆっくりと首を曲げ、低く呟くような声で「ええ、ありがとう」

と言った。

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