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 摩耶の部屋の手入れは終わりそうでいながら、なかなか終わり

が見えなかった。しかし、さやかにとってはそれが良い気晴らし

の一つにもなっている。そんなことにかまけている間だけは、何

も考えずにいられたからだ。壁は明るい青に塗り替えられ、描き

改めた雲は絹が薄く広がって浮いているように見える。一部始終

を摩耶は部屋の真ん中に置かれたベッドから見ていたはずだっ

た。が、摩耶は気に入ったとも気に入らないとも言うことはな

い。さやかは胸が張ってくると母乳をやり、頃合を見計らってお

むつを取り替える。摩耶は与えられたものを受け取るだけで、外

界との繋がりなど興味がないかのように、焦点の定まることのな

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い目を静かに閉じている。

 その部屋は細長かった。昼間でも部屋の奥は薄暗く、バルコニ

 

 

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ーの方に行くに従って明るくなる。さやかは部屋の奥に腰を下ろ

し、仕事のはかどり具合をぼんやり眺めながら、あれこれ考えて

いた。ベッドと椅子以外には大きな木の棚があるだけ。がらんと

した部屋だが、床は雑然として、新聞紙の上の乾いた刷毛、水性

塗料の空缶、切るのに失敗した壁紙、オレンジ色のカッターなど

が散らばっている。そして、棚にはさやかと摩耶をじっと見てい

る人形たち。

 もうこれで、壁は終わりにしよう。次にやるべきことは、壁に

絵や洋服が掛けられるようにフックを取り付けることだ。小さな

机も必要かもしれない。それから摩耶の服を入れる箪笥も。さ

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て、フックはどんなものにしたらいいだろう。既成の安物じゃ面

白くないし。

 

 

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 壁から突き出た鈎、ねじ曲がった鉄の指。引っ掛けるものを待

つ金属の形をあれこれ思い浮かべている所に、突然、電話が鳴り

始めた。受話器を取ると、義理の姉の声が聞こえてきた。

「具合はどう? 赤ちゃんは元気?」

 いつもの陽気な声で聞かれたので、「ええ、大丈夫です」と、

ためらい混じりにさやかは答えた。姉は物にこだわらない無邪気

な人なので、悩んでいるような様子を見せて混乱させるのは忍び

ない。それに、姉には感謝することが多かった。既に両親を無く

しているさやかを気遣って、こうして時々様子を尋ねてくれる。

友人からは、夫の実家に入る気は無いのかと聞かれることがあ

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る。夫の実家と気まずくなったことはないが、義理の母はどうも

苦手だ。今のさやかのように後ろ楯のない立場には、日常の些細

 

 

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な事柄が意外に複雑な様相を帯びてくることがあるものだ。それ

を上手に切り回すのは骨の折れることに違いない。さやかのよう

に世離れした性格の持ち主であればなおさらだ。だから周囲にも

彼女をそのような立場に置こうと言い出す者はなかった。自分で

も、もしかしたら摩耶と一緒に夫の実家に入って暮らすのが一番

いいのかもしれないと思うことがある。が、結局、その事は夫の

両親もさやかも、どちらも口に出せないままでいた。そのまま時

間だけがいたずらに過ぎ、義理の両親は特に心配する必要も無い

と思い始めたらしい。最近は少し離れて見守るという形で落ち着

いている。

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 さやかの当たり障りのない答えを受けながら、姉はなおも話し

続けた。その会話の中で不意に姉の口から、こんな言葉が出てき

 

 

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た。

「家に二人っきりじゃ寂しいわね。だけど、小人たちがいるから

寂しくないのかしら」

 一瞬、何の話をしているのだろうと思ったが、バンシーたちの

ことを言っているのだと分かった。振り返ると、棚に並んだ人形

たちの冷たい視線がある。すべてさやかが趣味で作ったものだ。

自分の趣味のことなど、殆ど忘れかけていた。姉はさやかの作っ

たバンシーたちが気に入っているらしい。バンシーとはケルトの

民話に伝わる妖精で、旧家に付き添い、人が死ぬ時に泣きわめく

といわれている。語り伝えられる姿は、ずっと亡霊や妖怪の類に

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近いものらしいが、さやかはバンシーを物思いに沈む少女のよう

に作った。姉にはその不吉な意味を話しそびれてしまった。だか

 

 

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ら、姉はバンシーを小人たちと呼んで、無邪気に可愛いという。

人形は他にもあるが、他のものはすべて異形のものたち、すなわ

ち、奇形の姿をした半分は獣のような人形たちだ。それについて

は、姉はまるで目に入らないかのように何も言おうとはしない。

何か、理解できないものを見てしまったかのように。

 電話が終わって、ぼんやり人形たちを眺めていると、以前、集

めながら読んだ民話の数々を思い出した。超自然的なものに対す

る畏怖の念や、闇を覗き込むような恐怖が次々に心に浮かび、落

ち着いて座っていられなくなる。人形たちに紛れ、子鬼が潜んで

笑っているような気がする。妖精たちは、丁度この人形たちと同

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じくらいの背格好だった。彼らは人間の子供を盗むことがあると

いう。馬鹿げた想像を振り払おうとするが、考えまいとすればす

 

 

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るほど、子供の上に落ちる不吉な影を意識しないわけにはいかな

くなる。

 変な想像に耽るのは、そして、何かいらいらするのは、伸び過

ぎて目にかかる前髪のせいかもしれない。少し切ろうと思って洗

面所にいくが、剃刀が見当たらない。どうして無いのか、考えて

みたが分からない。結局、髪を切るのは諦めることになった。買

物に行くついでに剃刀も買ってくればいい。そう思って、さやか

は寝室に取って返し、上着を羽織った。摩耶を連れていくつもり

だったが、子供が暖かく、静かにしているのを見て、独りで行く

ことにした。ほんの十分ほどだからこのままでも大丈夫だろう。

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自分がいなくても泣くわけじゃないし、まして、妖精が連れ去る

なんてあるわけがない。

 

 

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 外はもう夕暮れだった。夫と初めてこの家を見に来た日も、こ

んな、もの寂しい夕暮れで、景色が酸っぱくなるような紫色がか

って見えたものだ。白く塗られた贈り物の箱といった感じで、テ

ラスハウスが三つ並んでいた。中古住宅として売りに出されてい

たのが、今、自分たちの住んでいる一番奥の家だ。不動産会社の

セールスマンの案内で中を見た後、家の外側を見せてもらった。

夫はあれこれ質問していたが、さやかには特に聞きたいことも思

い浮かばなかった。家の隣からすぐ畑が続いていて、畑を挟んで

向こう側に古い木造家屋が数軒、どこか薄汚れたような色の壁を

見せている。そのさらに向こうには、コンクリートの壁を剥き出

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しにした背の高いアパートが、船を思わせる姿で立っていた。畑

の右手の端は黒々とした木立で終わっているが、左手の端には盛

 

 

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り上がった土が遮り、その向こう側はからっぽの空が広がるばか

りである。「あれは?」さやかが指差すと、

「堤防ですよ。奥さん」と、櫛目の通った髪を撫でながら、セー

ルスマンは答えた。「その向こうに川が流れているんです」

「洪水になったらどうしよう」さやかは、熱心に外壁を見ている

夫の耳元でささやいた。 セールスマンが、それを耳聡く聞きつ

けて答えた。

「実をいうと一度だけ洪水になったことがあるんです。何年か

前、大きな台風が来た時に。あの家の壁の下半分が土色になって

いるでしょう、分かりますか? その時はあそこまで水に浸かっ

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たんですよ」

 セールスマンは、ぶっきら棒に畑の向こう側の家を指した。

 

 

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が、さやかの怪訝そうな表情を見て、すぐつけ加えた。

「でも安心してください。その後は治水工事も進んでいますか

ら。もう、そんなことはないと思いますよ」

 土手や木立に囲まれた、どこか荒寥とした風景に背を向ける

と、さやかは足早に歩き始めた。摩耶を残して家を出てきたこと

を思うと、少し後ろめたい感じがする。三つのテラスハウスの並

ぶ路地を抜け、街路樹を備えた道路をいく。時折、通り過ぎる車

のヘッドライトを除くと、色も無く、動くものも見えない。やが

て、橋の上に出た。その河は両岸と川底をコンクリートで固めら

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れ、水はその上を滑るように流れている。さやかは橋の上で立ち

止まり、その先に瞬く商店街の灯や、川下の方に幾何学的に連な

 

 

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る工場群を眺めた。その時、頭の中に浮かんでは消える思いは、

後に何の跡も残すことは無かった。

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