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窓のガラスをこつこつと叩く音がするので、さやかはそっと音の |
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する方を盗み見た。固いつぼみを付けた小枝が風に揺られ、まるで |
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合図を送ってくるかのように、窓を叩いている。その女を信じては |
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いけない、彼女には何も分からないし、結局、どうでもいいと思っ |
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ているのだ。あなたのことも。摩耶のことも。 |
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その女医には好感を持っていたはずなのだが、今はどこか胡散臭 |
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い感じがするのはなぜだろう。白衣の後ろ姿を眺めながら、ぼんや |
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りと考える。髪を後ろで束ねただけで、特に身だしなみを構うよう |
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でもないのに、歳の割に随分と若く見える。以前は、そんな彼女を |
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憧れと尊敬の混じった気持で眺めていたものだが、今は下手な演技 |
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に誤魔化されているような気さえする。彼女はさやかに背を向け、 |
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小さなベッドに寝かされた摩耶に顔を近付けて、あやすように何事 |
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か話し掛けている。そして時々、さやかに摩耶の様子について、ち |
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ょっとした質問をするので、さやかも当り障りのない答を返してお |
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く。なんだか、さやかの知らないことを彼女は知っているようで、 |
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ひどく落着かない気分にさせられる。そんな自分の感情に気が付く |
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と、自分自身にさえ嫌悪感が湧いてくる。 |
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意識していると息の詰まってしまいそうな感情から逃れたく |
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て、さやかは何も考えまいとする。何かが思い浮かぶまま、頭の中 |
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をからっぽにしておくと、どうしてか、潮の香りと肌を熱する日差 |
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しの感覚が蘇ってくる。その青い色をした遠い記憶の中で、彼女は |
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海辺の小さな博物館の窓から、白い浜辺に打ち寄せる波を眺めてい |
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る。 |
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あの日、車から降りると、さやかは暫く目を開けることができな |
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かった。新婚旅行が夫の仕事の都合で先送りになってしまったた |
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め、夫がすまながり、仕事の合間を見て、三方を海に囲まれたその |
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岬まで連れてきてくれたのだった。さやかは旅行が延期になったこ |
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とぐらい何とも思ってはいなかったのだが、まあ、それで夫の気の |
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済むのなら、くらいの気持で付いて来た。 |
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目を開けると、眼下に白い砂浜がどこまでも続き、波間を水鳥が |
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群れている。不思議なほど静謐で無垢な風景が、特に期待して来た |
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わけでもないさやかを面食らわせた。灯台の所まで歩いてみよう |
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と、夫は言う。さやかのことを、女子高生ぐらいにしか見えないと |
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言ってからかったりするくせに、私なんかよりずっと少女趣味な人 |
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だと、その時もさやかは思った。夫は彼女の手を取って、灯台の立 |
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っている所まで小道を下っていく。 |
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灯台の螺旋階段や、岩場の階段の登り降りに疲れると、二人は船 |
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着き場に面した白い建物に入って休むことにした。少し太り気味の |
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体を椅子に落ちつけると、夫はいかにもほっとした表情を見せる。 |
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冷たいものを飲みながら休んでいる夫を残して、さやかは貝殻細工 |
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の土産物などを見ていたが、二階が博物館になっているのに気が付 |
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くと、気の向くまま、ぶらりと上がってみる気になった。階段の上 |
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で入場料を払い、展示室に入っていく。中に人の気配は無く、浜辺 |
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に打ち寄せる波の音だけが、白い壁に虚しくこだましていた。 |
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昼下がりのまどろむような静けさを破るのをためらい、足音を忍 |
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ばせながら、通路を歩いていく。この辺りでは、かつて捕鯨が行わ |
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れていたことがあるのだろうか。展示品には捕鯨や海洋動物に関す |
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るものが繰り返し現れた。鯨や海豚の骨格の一部、捕鯨の歴史や写 |
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真を載せたパネル、船の模型、様々な種類の銛や仕掛、海亀やあざ |
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らしの剥製。「死体」の前を、びくびくしながら通り過ぎていく。 |
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が、ふとガラスの容器の中を覗きこんで、さやかは息を飲んだ。そ |
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れはホルマリン漬けになり、白く脱色した鯨の胎児だった。それを |
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眺めていると、血の気が引いていくような感じがしてくる。その隣 |
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には、さらに大きなガラス容器が幾つか並び、中に巨大な鯨のペニ |
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ス、鯨の処女膜、鯨のヴァギナ、切開された子宮などが納められて |
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いた。 |
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開いている窓を見つけて駆け寄り、さやかは胸一杯に新鮮な空気 |
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を吸い込んだ。肺の中の、薬品の匂いのついた空気を入れ替えたか |
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った。窓の傍にいると、外の日差しが強いので、影の中に隠れてい |
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るような感じがする。さやかは目を細くして、空と海の溶け合う辺 |
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りを見つめていたが、波の音に微かな歓声が混じるのに気がつい |
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て、浜辺の方に目を向けた。原色の水着をつけた若者たちが数人、 |
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サーフボードを抱えて、砂浜を歩いている。その日に焼けた肌や、 |
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引き締まった胸板を彼女はぼんやりと眺めていたのだが、その中の |
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一人がさやかに気が付き、陽気に手を振った。さやかは自分の姿も |
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彼らから見えるのだと気が付いて、びっくりして窓の奥に体を引っ |
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込めた。外から一段と大きな笑い声が聞こえてくる。窓の奥で息を |
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潜めているさやかの目に残像のように残ったものは、さやかに向か |
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って手を振った青年の胸に光っていた金色のペンダントだった。そ |
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の一筋の光が、火花が跡を残すように瞼の裏にいつまでも残った。 |
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病院に定期的に通い始めるようになってから、さやかは、時々、 |
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あの夏の日の情景を思い出した。それは薬品の臭いがそうさせるの |
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か、病院の白い建物がそうさせるのか、自分でも分からない。 |
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一通りの手続きの締めくくりとして、女医は紙挟みの書類にボー |
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ルペンで必要事項の記入を始めた。書類に目を落としているその様 |
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子が、さやかには自分の視線を避けているようにも感じられる。 |
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「何も心配することはありませんよ、赤ちゃんは健康ですから」と |
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彼女はいう。 |
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「そうですか」 |
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女医の事務的な言葉に、気力もたちまち萎え、さやかはうつ向い |
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て力無く頷いた。こんな人、信用できない。自分の赤ちゃんのこと |
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だもの、自分が一番よく知っているはず。 |
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誰も頼ることはできない。今までにも、何度となく繰り返してき |
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た言葉を、その時もまた祈るように繰り返した。醒めた目で見れば |
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窓の外で揺れている小枝も、灰色の空を背景に、ただそこにあると |
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いうだけの話だ。枝の先が窓に触れる音なんかに、何の意味もあり |
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はしない。 |
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