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 部屋の壁を青い色に染めていく、その刷毛の動きを休め、さや

かは傍らのわが子の顔を覗き込んだ。その子、摩耶は軽く目を閉

じ、ゆったりとした息づかいを繰り返しながら、まどろみの中に

にいる。ここがあなたの部屋なのよ、と虚しい期待を込めて話し

掛ける。しかし、摩耶がその声に応える様子はない。生まれたば

かりの子供も夢を見るというが、この子の夢にも色があるのだろ

うか。あるとすれば、どんな色をしているのだろう。せめて夢の

中だけでも、この絵の具のような青い空の下にいてくれればいい

のだが。

 雨はもう一週間、降り続いていた。窓の外に目を向けると、滅入

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るような鉛色の景色が映る。近くの木立や建物は黒くそぼ濡れ、遠

くのものは霧に包まれ、身をすくませてじっと立っている。道路を

 

 

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薄い膜のように流れていく水だけが、生き生きとしてまるで命を持

っているかのようだ。水が作り出す鱗のような文様が、正体のない

生き物のように物の表面を走っていく。途切れることの無い雨音

が、さやかの気分をかき乱す。小さなテラスハウスの二階で、コン

クリートの壁に閉じ込められ、身も心もざらざらに錆ついてしまい

そうだ。

 外から部屋の中に目を移し、さやかはもう一度、摩耶に話しかけ

てみた。これじゃ青空というより、何だか水の中にいるみたいね。

だが、その言葉を聞いているのは、棚に並んだ物言わぬ人形たちだ

けだ。摩耶は自分の世界に閉じ込もったまま、さやかの声に答えよ

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うとはしない。生まれてから、今まで、ずっと。まるで、生まれて

きたことは間違いだったと訴えているかのように。

 

 

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 自分の体に異常を感じた時、さやかは子供のために用意した部屋

の壁を空色に塗っている途中だった。楽しい予感は悪夢に遮られ

た。臍の緒が首に巻き付いたための切迫早産。馬鹿なことを考えて

はいけないと思いつつも、子供がお腹の中で自殺を企てている場面

が、昔の映画のように、かたかたと音をたてて頭の中に映し出され

る。幸か不幸か、その自殺は未遂に終わった。子供はぐったりした

体で生まれてきた。産声を上げる力もなく、土気色の顔をして。病

院では保育器の中に入れられた子供を抱くこともできず、不安気に

見守るだけの日が続いた。予定日よりずっと早く生まれたために、

夫も都合がつかず、傍にいてはもらえなかった。自分を嫌っている

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義母――これといった理由もなく、さやかはそう思い込んでいた―

―の顔からは何も読み取ることはできない。子供について何か自分

 

 

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の知らない秘密があるのではないか、言うに言えないことがあるの

ではないか。そう思わずにはいられなかった。ただ、義理の姉だけ

が、当たり障りのない、けれども優しい言葉を掛けてくれたのが有

り難かった。

 その子供は泣くことがなかった。こんこんと眠り続け、ミルクを

飲ませれば目を閉じたままゆっくりと飲む。しかし、放っておいた

なら、そのまま何の声も出さずに死んでしまいそうだ。何の心配も

いりません、健康な赤ちゃんです。退院する時、医者はそう言った。

が、これほど生きる意欲のない生き物を見たことがない、これが正

常な子供なんですかと、さやかは叫びたかった。

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 一体、何が気に入らないの。殺伐とした気分で自分の娘を見やり

ながら、さやかはなおも独り、話し続けた。決まった時間毎に授乳

 

 

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をして、後は眠るばかり。手が掛からないのは有り難いのかもしれ

ないが、これではまるで人形のようだ。考えてはいけないと思いな

がらも、繰り返し自分に問い掛けてしまう。もしも、首を絞められ

たために、酸素が不足して、脳の一部が機能していなかったら、も

しも、この子に何か障害があったら、と。一体、何がいけなかった

のだろう。私がどんな悪いことをしたというのだろう。何か間違い

があるとするなら、それを正す方法はないのだろうか。

 さやかは気を取り直して、壁の仕上げに掛かる。摩耶ちゃんはお

魚じゃないもんね、この壁、どうしたら青空に見えると思う? 雲

を浮かべてみたら? 思いつくとすぐ、白い水性塗料に刷毛を浸

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し、青く塗りあげられた壁に向かった。綿菓子のような雲を二つ三

つ描き、少し離れて出来映えを確かめたが、子供の落書きのように

 

 

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しか見えない。さやかは失望して刷毛を置く。そして、少し休もう

とベッドの端に顔を埋めた。

 そのつもりは無かったのだが、いつの間にかうとうとしてしまっ

たのかもしれない。気がつくと、部屋が深い水の底にあるかのよう

に陰っていた。ただ窓の外から聞こえてくる雨音だけが異様に激し

く、不安をかき立てるように響いている。今、何時なのだろう。も

う夕方になってしまったのだろうか。顔を上げると、ベッドの真ん

中で摩耶が虚ろな目を開いているのが分かった。その目はいつも自

分の内側だけを見ているかのように、期待することも要求すること

も無く、静かな光を湛えている。さやかは痺れた足を意識しながら

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立ち上がり、バルコニーに出るガラス戸から外の様子を確かめよう

とした。雨はもう止んでいる。窓の外から聞こえていた水音は雨の

 

 

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音ではなかったのだ。

 そこには信じられないような光景が広がっていた。道路が濁流に

呑まれ、すっかり見えなくなっている。水面から突き出た背の高い

街路樹で、そこに道があったと分かるだけだった。周囲の建物は疾

走する船のように、逆巻く流れに逆らい、水しぶきをあげている。

押し寄せる濁流は、この小さなテラスハウスをも巻き込み、激しい

響きを立てている。

 「心配することないよ」背後で声がする。振り返ると、よく日に

焼けた裸の上半身に金のネックレスをした男が立っていて、さやか

の肩越しに外を眺めていた。さやかの脅えた顔を見ると、その男は

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拍子抜けするような笑顔を浮かべる。「なに呑気なこといってるの

よ」とさやかは声を荒げ、男を押し退けるようにして階下に急い

 

 

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だ。下では押し寄せる水のために、部屋全体がうめき声を上げるか

のように、みしみし音を立てている。自分の平衡感覚がおかしくな

ったのだろうか。立っている床が時折ふわりと浮き上がるような感

じがする。玄関のドアは、もはや体を打ちつけても、びくともしな

い。僅かな隙間から濁った水が侵入し、忌まわしい生き物のように

床を這いまわっている。自分の感覚がおかしいのではない。家が揺

らいでいるのだ。もう駄目かもしれない。そう思うと、恐怖で息も

できなくなる。さやかは喘ぐような声で泣きながら、階段を駆け上

った。

 摩耶を寝せておいたベッドが空なのを見て、さやかは悲鳴をあげ

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そうになった。が、バルコニーの方に気付くと、何がなんだか分か

らなくなってしまった。

 

 

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 摩耶はバルコニーにいた。男の裸の胸に抱かれて。よく日に焼け

た浅黒い肌や引き締まった厚い胸板が心地良いのか、それとも、バ

ルコニーから見える悲惨な光景が面白いのか、摩耶は声をあげて笑

っている。さやかが初めて耳にする子供の楽しげな声は、まるで鈴

の音のようだ。呆けたように目の前の二人を見ていると、再び家が

大きく揺れ、木を引き裂くような音が起こった。ガラス戸から見え

る外の風景が傾いたり、回転したりし始める。男は、さやかの方を

向くと、もう一時も揺れ動くことをやめない外の景色を指さし、白

い歯を見せてにやりと笑った。

「私たちは流されてるのよ、なぜ笑っていられるの? 一体どうし

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たらいいの?」

 さやかは金切り声を上げ、外に背を向けるとその場に座りこみ、

 

 

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ベッドの上で頭を抱えた。顔を自分の腕の中に埋めても、摩耶の軽

やかな笑い声は、母親の困惑などお構いなしに聞こえてくる。耳を

塞いでしまいたいと思いながらも、その笑い声につられて、さやか

は振り返らずにはいられなかった。男がさやかに向かって盛んに手

招きしている。その男の、どこか品のない少年のような笑顔を見て

いると、恐怖とか不安といった感情に捕らわれている自分が、なん

だか馬鹿らしくなってきた。さやかは誘われるまま、恐るおそるバ

ルコニーに出てみた。家は箱船のように、今は流れに逆らわず、ゆ

っくりと流されている。家がもとあった場所では、不気味な黒い渦

が唸りをあげていた。自分たちだけを残して、みんな避難してしま

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ったのだろうか。逆巻き、うねりながら流れる水を除けば、動くも

のの気配も無く、街は見棄てられたかのように静まり返っていた。

 

 

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見上げる空も泥のように濁り、立ちこめる雲を通して届く光が茶色

を帯びている。さやかは恐怖を忘れて、その奇妙な光景に見入っ

た。古い写真の中にいるかのように、暗いにも関わらず、総ての物

の輪郭がくっきりと見える。耳もおかしくなっていた。濁流が肌に

感じる程の音を上げているにも関わらず、死んだような静けさを感

じていた。

 やがて、体がぐんと引っ張られるような感じがしたと思うと、流

される速度が一段と早くなった。家が回転した時、行く手に白い飛

沫が上がり、流れが落ち込んでいるのが見えた。脳裏に、家ごと滝

に落ちていく光景が浮かび、再び激しい恐怖に襲われた。見知らぬ

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男と摩耶は、恐怖や不安など知らないかのように笑い声を上げてい

る。地底に落ち込む水の飛沫と轟音が迫ってきた時、さやかは今度

 

 

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こそ終わりだと思った。喉かからからに乾き、声を上げようにも声

にならない。体を強張らせ目を固く閉じた瞬間、落ちていく時の無

重力感が襲った。

 一段と激流の響きが高まったのを除けば、何も起こらない。さや

かがそっと目を開くと、さらに驚くような光景が目に入った。さや

かたちを乗せた家は、両岸をコンクリートで固められた河をすごい

勢いで下っている。さっき見た水飛沫は、地表を走り抜けた奔流が

河に流れ込んでいる場所だったのだ。泡立つ流れは、家具や建物の

残骸を水面一杯に運んでいる。両岸には民家が続き、集まった人々

が、流されていくさやかたちを指差したりしていたが、流れを下っ

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て川幅が広がると共に、両岸の風景は人気の無い、幾何学的な形を

した工場や倉庫の群れへと変わっていった。水の響きは唸るように

 

 

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低くなり、河を運ばれていた残骸も、流れに呑まれて次々に沈んで

行く。今はもう、浮いているものといえば、木片も同然のこの家だ

けだった。

 男は呆然としているさやかの肩を叩き、彼女に水の中を見るよう

指差した。男の能天気な態度に怒る気力も残っていなかった。さや

かは促されるまま水の中を覗き込んだ。いつの間にか、水は濁った

ような色が無くなり、殆ど透き通ってさえいる。が、河の中に何か

真っ黒な影が見えるような気がした。しかも、その影は時折、下を

素早く通り過ぎるように動いている。一体、何だろうと、身を乗り

出して水の中に目を凝らしていると、不意に家が大きく傾き、あっ

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と思う間もなく、さやかはバルコニーから水の中に投げ出された。

 水は冷たく澄み切っていた。死ぬという恐怖は余り感じられず、

 

 

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むしろ、流れに抱かれているような、奇妙な安心感に包まれてい

た。いつまでも呼吸が苦しくならないのが不思議で、もしかした

ら、自分は水の中でも息ができるのではないかと思ったりする。そ

っと目を開けてみると、水面は水の中を漂うさやかの遥か上の方に

あった。その中心にあって青白く揺らめいているのは月の光だろう

か。オーロラのように降りてくる光を見上げていると、それを遮っ

て、黒い影が通り過ぎていった。その時、初めて自分の回りを泳い

でいるものに気が付いた。海豚や鯨の群れが、大きな河を一杯にし

て、流れより速く、海に向かって泳いでいる。黒々として巨大な体

が、凄い勢いで彼女を追い越していく。そして、海豚や鯨の雄たち

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は、白くて柔らかい、けれども巨大なペニスを持っていて、さやか

の傍らをすり抜けていく時、それで繰り返し、彼女の頬を撫でてい

 

 

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くのだった。

 さやかはどこまでも遠く、遥かな場所へと運ばれていった。そし

て、再び目を覚ました時、そのつもりは無かったのだが、いつの間

にかうとうとしてしまったのかもしれないと思った。気が付くと、

部屋が深い水の底にあるかのように陰っている。ただ窓の外から聞

こえてくる雨音だけが、不安をかき立てるように響いていた。雨は

もう一週間も降り続いているのだ。

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