Page 1 |
部屋の壁を青い色に染めていく、その刷毛の動きを休め、さや |
|
かは傍らのわが子の顔を覗き込んだ。その子、摩耶は軽く目を閉 |
||
じ、ゆったりとした息づかいを繰り返しながら、まどろみの中に |
||
にいる。ここがあなたの部屋なのよ、と虚しい期待を込めて話し |
||
掛ける。しかし、摩耶がその声に応える様子はない。生まれたば |
||
かりの子供も夢を見るというが、この子の夢にも色があるのだろ |
||
うか。あるとすれば、どんな色をしているのだろう。せめて夢の |
||
中だけでも、この絵の具のような青い空の下にいてくれればいい |
||
のだが。 |
||
雨はもう一週間、降り続いていた。窓の外に目を向けると、滅入 |
||
Next page |
るような鉛色の景色が映る。近くの木立や建物は黒くそぼ濡れ、遠 |
|
くのものは霧に包まれ、身をすくませてじっと立っている。道路を |
Page 2 |
薄い膜のように流れていく水だけが、生き生きとしてまるで命を持 |
|
っているかのようだ。水が作り出す鱗のような文様が、正体のない |
||
生き物のように物の表面を走っていく。途切れることの無い雨音 |
||
が、さやかの気分をかき乱す。小さなテラスハウスの二階で、コン |
||
クリートの壁に閉じ込められ、身も心もざらざらに錆ついてしまい |
||
そうだ。 |
||
外から部屋の中に目を移し、さやかはもう一度、摩耶に話しかけ |
||
てみた。これじゃ青空というより、何だか水の中にいるみたいね。 |
||
だが、その言葉を聞いているのは、棚に並んだ物言わぬ人形たちだ |
||
けだ。摩耶は自分の世界に閉じ込もったまま、さやかの声に答えよ |
||
Next page |
うとはしない。生まれてから、今まで、ずっと。まるで、生まれて |
|
きたことは間違いだったと訴えているかのように。 |
Page 3 |
自分の体に異常を感じた時、さやかは子供のために用意した部屋 |
|
の壁を空色に塗っている途中だった。楽しい予感は悪夢に遮られ |
||
た。臍の緒が首に巻き付いたための切迫早産。馬鹿なことを考えて |
||
はいけないと思いつつも、子供がお腹の中で自殺を企てている場面 |
||
が、昔の映画のように、かたかたと音をたてて頭の中に映し出され |
||
る。幸か不幸か、その自殺は未遂に終わった。子供はぐったりした |
||
体で生まれてきた。産声を上げる力もなく、土気色の顔をして。病 |
||
院では保育器の中に入れられた子供を抱くこともできず、不安気に |
||
見守るだけの日が続いた。予定日よりずっと早く生まれたために、 |
||
夫も都合がつかず、傍にいてはもらえなかった。自分を嫌っている |
||
Next page |
義母――これといった理由もなく、さやかはそう思い込んでいた― |
|
―の顔からは何も読み取ることはできない。子供について何か自分 |
Page 4 |
の知らない秘密があるのではないか、言うに言えないことがあるの |
|
ではないか。そう思わずにはいられなかった。ただ、義理の姉だけ |
||
が、当たり障りのない、けれども優しい言葉を掛けてくれたのが有 |
||
り難かった。 |
||
その子供は泣くことがなかった。こんこんと眠り続け、ミルクを |
||
飲ませれば目を閉じたままゆっくりと飲む。しかし、放っておいた |
||
なら、そのまま何の声も出さずに死んでしまいそうだ。何の心配も |
||
いりません、健康な赤ちゃんです。退院する時、医者はそう言った。 |
||
が、これほど生きる意欲のない生き物を見たことがない、これが正 |
||
常な子供なんですかと、さやかは叫びたかった。 |
||
Next page |
一体、何が気に入らないの。殺伐とした気分で自分の娘を見やり |
|
ながら、さやかはなおも独り、話し続けた。決まった時間毎に授乳 |
Page 5 |
をして、後は眠るばかり。手が掛からないのは有り難いのかもしれ |
|
ないが、これではまるで人形のようだ。考えてはいけないと思いな |
||
がらも、繰り返し自分に問い掛けてしまう。もしも、首を絞められ |
||
たために、酸素が不足して、脳の一部が機能していなかったら、も |
||
しも、この子に何か障害があったら、と。一体、何がいけなかった |
||
のだろう。私がどんな悪いことをしたというのだろう。何か間違い |
||
があるとするなら、それを正す方法はないのだろうか。 |
||
さやかは気を取り直して、壁の仕上げに掛かる。摩耶ちゃんはお |
||
魚じゃないもんね、この壁、どうしたら青空に見えると思う? 雲 |
||
を浮かべてみたら? 思いつくとすぐ、白い水性塗料に刷毛を浸 |
||
Next page |
し、青く塗りあげられた壁に向かった。綿菓子のような雲を二つ三 |
|
つ描き、少し離れて出来映えを確かめたが、子供の落書きのように |
Page 6 |
しか見えない。さやかは失望して刷毛を置く。そして、少し休もう |
|
とベッドの端に顔を埋めた。 |
||
そのつもりは無かったのだが、いつの間にかうとうとしてしまっ |
||
たのかもしれない。気がつくと、部屋が深い水の底にあるかのよう |
||
に陰っていた。ただ窓の外から聞こえてくる雨音だけが異様に激し |
||
く、不安をかき立てるように響いている。今、何時なのだろう。も |
||
う夕方になってしまったのだろうか。顔を上げると、ベッドの真ん |
||
中で摩耶が虚ろな目を開いているのが分かった。その目はいつも自 |
||
分の内側だけを見ているかのように、期待することも要求すること |
||
も無く、静かな光を湛えている。さやかは痺れた足を意識しながら |
||
Next page |
立ち上がり、バルコニーに出るガラス戸から外の様子を確かめよう |
|
とした。雨はもう止んでいる。窓の外から聞こえていた水音は雨の |
Page 7 |
音ではなかったのだ。 |
|
そこには信じられないような光景が広がっていた。道路が濁流に |
||
呑まれ、すっかり見えなくなっている。水面から突き出た背の高い |
||
街路樹で、そこに道があったと分かるだけだった。周囲の建物は疾 |
||
走する船のように、逆巻く流れに逆らい、水しぶきをあげている。 |
||
押し寄せる濁流は、この小さなテラスハウスをも巻き込み、激しい |
||
響きを立てている。 |
||
「心配することないよ」背後で声がする。振り返ると、よく日に |
||
焼けた裸の上半身に金のネックレスをした男が立っていて、さやか |
||
の肩越しに外を眺めていた。さやかの脅えた顔を見ると、その男は |
||
Next page |
拍子抜けするような笑顔を浮かべる。「なに呑気なこといってるの |
|
よ」とさやかは声を荒げ、男を押し退けるようにして階下に急い |
Page 8 |
だ。下では押し寄せる水のために、部屋全体がうめき声を上げるか |
|
のように、みしみし音を立てている。自分の平衡感覚がおかしくな |
||
ったのだろうか。立っている床が時折ふわりと浮き上がるような感 |
||
じがする。玄関のドアは、もはや体を打ちつけても、びくともしな |
||
い。僅かな隙間から濁った水が侵入し、忌まわしい生き物のように |
||
床を這いまわっている。自分の感覚がおかしいのではない。家が揺 |
||
らいでいるのだ。もう駄目かもしれない。そう思うと、恐怖で息も |
||
できなくなる。さやかは喘ぐような声で泣きながら、階段を駆け上 |
||
った。 |
||
摩耶を寝せておいたベッドが空なのを見て、さやかは悲鳴をあげ |
||
Next page |
そうになった。が、バルコニーの方に気付くと、何がなんだか分か |
|
らなくなってしまった。 |
Page 9 |
摩耶はバルコニーにいた。男の裸の胸に抱かれて。よく日に焼け |
|
た浅黒い肌や引き締まった厚い胸板が心地良いのか、それとも、バ |
||
ルコニーから見える悲惨な光景が面白いのか、摩耶は声をあげて笑 |
||
っている。さやかが初めて耳にする子供の楽しげな声は、まるで鈴 |
||
の音のようだ。呆けたように目の前の二人を見ていると、再び家が |
||
大きく揺れ、木を引き裂くような音が起こった。ガラス戸から見え |
||
る外の風景が傾いたり、回転したりし始める。男は、さやかの方を |
||
向くと、もう一時も揺れ動くことをやめない外の景色を指さし、白 |
||
い歯を見せてにやりと笑った。 |
||
「私たちは流されてるのよ、なぜ笑っていられるの? 一体どうし |
||
Next page |
たらいいの?」 |
|
さやかは金切り声を上げ、外に背を向けるとその場に座りこみ、 |
Page 10 |
ベッドの上で頭を抱えた。顔を自分の腕の中に埋めても、摩耶の軽 |
|
やかな笑い声は、母親の困惑などお構いなしに聞こえてくる。耳を |
||
塞いでしまいたいと思いながらも、その笑い声につられて、さやか |
||
は振り返らずにはいられなかった。男がさやかに向かって盛んに手 |
||
招きしている。その男の、どこか品のない少年のような笑顔を見て |
||
いると、恐怖とか不安といった感情に捕らわれている自分が、なん |
||
だか馬鹿らしくなってきた。さやかは誘われるまま、恐るおそるバ |
||
ルコニーに出てみた。家は箱船のように、今は流れに逆らわず、ゆ |
||
っくりと流されている。家がもとあった場所では、不気味な黒い渦 |
||
が唸りをあげていた。自分たちだけを残して、みんな避難してしま |
||
Next page |
ったのだろうか。逆巻き、うねりながら流れる水を除けば、動くも |
|
のの気配も無く、街は見棄てられたかのように静まり返っていた。 |
Page 11 |
見上げる空も泥のように濁り、立ちこめる雲を通して届く光が茶色 |
|
を帯びている。さやかは恐怖を忘れて、その奇妙な光景に見入っ |
||
た。古い写真の中にいるかのように、暗いにも関わらず、総ての物 |
||
の輪郭がくっきりと見える。耳もおかしくなっていた。濁流が肌に |
||
感じる程の音を上げているにも関わらず、死んだような静けさを感 |
||
じていた。 |
||
やがて、体がぐんと引っ張られるような感じがしたと思うと、流 |
||
される速度が一段と早くなった。家が回転した時、行く手に白い飛 |
||
沫が上がり、流れが落ち込んでいるのが見えた。脳裏に、家ごと滝 |
||
に落ちていく光景が浮かび、再び激しい恐怖に襲われた。見知らぬ |
||
Next page |
男と摩耶は、恐怖や不安など知らないかのように笑い声を上げてい |
|
る。地底に落ち込む水の飛沫と轟音が迫ってきた時、さやかは今度 |
Page 12 |
こそ終わりだと思った。喉かからからに乾き、声を上げようにも声 |
|
にならない。体を強張らせ目を固く閉じた瞬間、落ちていく時の無 |
||
重力感が襲った。 |
||
一段と激流の響きが高まったのを除けば、何も起こらない。さや |
||
かがそっと目を開くと、さらに驚くような光景が目に入った。さや |
||
かたちを乗せた家は、両岸をコンクリートで固められた河をすごい |
||
勢いで下っている。さっき見た水飛沫は、地表を走り抜けた奔流が |
||
河に流れ込んでいる場所だったのだ。泡立つ流れは、家具や建物の |
||
残骸を水面一杯に運んでいる。両岸には民家が続き、集まった人々 |
||
が、流されていくさやかたちを指差したりしていたが、流れを下っ |
||
Next page |
て川幅が広がると共に、両岸の風景は人気の無い、幾何学的な形を |
|
した工場や倉庫の群れへと変わっていった。水の響きは唸るように |
Page 13 |
低くなり、河を運ばれていた残骸も、流れに呑まれて次々に沈んで |
|
行く。今はもう、浮いているものといえば、木片も同然のこの家だ |
||
けだった。 |
||
男は呆然としているさやかの肩を叩き、彼女に水の中を見るよう |
||
指差した。男の能天気な態度に怒る気力も残っていなかった。さや |
||
かは促されるまま水の中を覗き込んだ。いつの間にか、水は濁った |
||
ような色が無くなり、殆ど透き通ってさえいる。が、河の中に何か |
||
真っ黒な影が見えるような気がした。しかも、その影は時折、下を |
||
素早く通り過ぎるように動いている。一体、何だろうと、身を乗り |
||
出して水の中に目を凝らしていると、不意に家が大きく傾き、あっ |
||
Next page |
と思う間もなく、さやかはバルコニーから水の中に投げ出された。 |
|
水は冷たく澄み切っていた。死ぬという恐怖は余り感じられず、 |
Page 14 |
むしろ、流れに抱かれているような、奇妙な安心感に包まれてい |
|
た。いつまでも呼吸が苦しくならないのが不思議で、もしかした |
||
ら、自分は水の中でも息ができるのではないかと思ったりする。そ |
||
っと目を開けてみると、水面は水の中を漂うさやかの遥か上の方に |
||
あった。その中心にあって青白く揺らめいているのは月の光だろう |
||
か。オーロラのように降りてくる光を見上げていると、それを遮っ |
||
て、黒い影が通り過ぎていった。その時、初めて自分の回りを泳い |
||
でいるものに気が付いた。海豚や鯨の群れが、大きな河を一杯にし |
||
て、流れより速く、海に向かって泳いでいる。黒々として巨大な体 |
||
が、凄い勢いで彼女を追い越していく。そして、海豚や鯨の雄たち |
||
Next page |
は、白くて柔らかい、けれども巨大なペニスを持っていて、さやか |
|
の傍らをすり抜けていく時、それで繰り返し、彼女の頬を撫でてい |
Page 15 |
くのだった。 |
|
さやかはどこまでも遠く、遥かな場所へと運ばれていった。そし |
||
て、再び目を覚ました時、そのつもりは無かったのだが、いつの間 |
||
にかうとうとしてしまったのかもしれないと思った。気が付くと、 |
||
部屋が深い水の底にあるかのように陰っている。ただ窓の外から聞 |
||
こえてくる雨音だけが、不安をかき立てるように響いていた。雨は |
||
もう一週間も降り続いているのだ。 |
||
Home |
第二節 ( p.16 - p.23 ) → |