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今となっては、あの時、美代子がぼくの耳許で囁いた言葉 だけが救いだ。あの晩、ぼくは自分の心に感じたものを信じ る決心をした。ぼくは粉々になった記憶の断片から、数少な い至福の瞬間を取り出し、時々眺めてみる。何が正しくて何 が間違っているのか、理性と狂気の境はどこにあるのか、同 じ問いばかりを繰り返しながら。
あの時、見掛けた男は、美代子の叔父などではない。美代 子の父親が失踪したことや、彼女が独りで住んでいること、 かなりの額の負債が残されていることを考え合わせれば、そ |
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の男の正体について大体の見当は付く。事情を聞き出すため、 それとなく宿の主人に水を向けてみたり、折り良く佐々木が 宿に来た時には晩酌に付き合ったりした。美代子に叔父がい ると言ったのはこの二人だが、二人は明らかに余所者(よそもの) であるぼくを騙していたのだ。この二人にしても、あの男が 美代子の叔父などではないということ位、とっくに気が付い ていたに違いない。美代子の身に起こったことを他人には言 えない村の秘密のように思っているらしいが、だからといっ て何をするでもない。素朴と言えば聞こえはいいだろうが、 怠惰なだけではないかと思った。この二人の年寄りに対して |
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怒りを押さえきれなかった。口では偉そうなことを言ってお きながら、一体どういうわけだと思った。その怒りは村全体 に対しても向けられた。こんな腐った村は水の底に沈んで当 然、事なかれ主義の田舎者たちがどうなろうと知ったことか と思った。 美代子や周囲の人々に掛かる陰を感じるにつけても、自分 の考えは正しいという確信が深まった。相手の男のことも少 しは分かった。柳田という男で、近隣の都市で会社の経営を しているらしい。どうせ金のことしか考えない、ろくでもな い輩なのだろう。もう、そんな風にしか考えることができな |
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かった。また、こうしたことにはありがちなことだが、村を 訪れる柳田の行動は殆ど習慣化しているらしい。こういう人 間のすることなど大体の想像がつく。 あの夜以来、美代子と会うことはなかった。店の前を通る ことさえ注意深く避けていた。美代子の方もぼくたちの前に 姿を現すことは無かった。何もかも分かってしまった以上、 ぼくが美代子を求めて来ることはないと、彼女も思っている のだろう。時折、ちらりと眺める美代子の店にも、どこか諦 め顔の風情が漂っていた。勿論、そんな感傷はぼくの身勝手 な想像から出た産物に過ぎないのだが。 |
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そして、指折り数えた日がやってきた。 その日、仕事を終えると、頃合いを見計らって宿を出た。 そのまま、真っ直ぐ誰もいない駅舎の中に入っていく。物陰 に入っていれば、誰からも姿を見られることなく、広場を見 ていられる。思った通り、彼女はいつもより随分早い時間に 店を閉め、表に面した明かりを消してしまっていた。ぼくは 気持ちを沈めるために煙草を取り出したが、それを口にくわ えただけで、マッチを弄(もてあそ)びながら、指を折って日 を数えたり、自分の頭の中にあるものを順を追って考えたり し始めた。 |
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待っていた男がこっちに歩いてくるのを見つけるまで、そ んなに長く待つ必要はなかった。駅舎の白熱灯の光が届く所 までくると、その姿がはっきり見えた。痩せた体をスポーツ シャツで包み、その上から薄手の上着を引っ掛けている。い っぱしに気取ってやがる、とぼくは胸の内で毒づいた。近付 くにつれて、皺の刻まれた浅黒い肌や神経質そうな眉の形ま でが見分けられる。勿論、ぼくの判断には偏見があるだろう が、一目見ただけで虫酸の走るような奴だと思った。その顔 には自らを顧みることのない高慢さと、無邪気な程の単純さ が同居していると思った。ぼくの目はその男に釘付けになっ |
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ていたが、その男がいよいよ近くまで来て我に帰った。急に 口にくわえた煙草のことを思い出し、マッチを擦ると手の中 で炎が燃え上がった。 その男、柳田はマッチの火で初めて物陰に人がいるのに気 が付いた。ぎょっとしたらしく、一瞬、立ち止まる。が、す ぐに気を取り直し歩き始めた。そのすぐ後を追うように、ぼ くも物陰から出て歩き始める。 「店ならもう終わってるよ、帰んな」 柳田は振り返って言った。 「知ってるよ」 |
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「この店に何か用か?」 柳田は横柄な口調で尋ねてくる。目の前にいる男が自分の 敵だということには、とっくに気がついているらしい。 「別に……」 ぼくの気の無い返事を軽蔑するように鼻で笑って、彼はそ のまま店の中に入って行こうとする。 「ぼくはあんたに用があるんだよ、柳田さん」 自分の名を呼ばれて、柳田は正面扉の前で立ち止まり、ゆ っくりと振り返った。 「お前は一体なんだ? 何しに……」 |
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「この際、俺のことはどうでもいい」ぼくは柳田の言葉を遮 った。「ちょっと頼みたいことがあるだけなんだから」 ぼくはもう一度マッチを擦って煙草に火を付けた。 「自分の名前も名乗れないのか、お前は」柳田はぼくの口許 で燃える炎を見詰めながらいう。「まあ、その無礼は別とし て、頼みというのを聞こうじゃないか」 「なに、簡単なことだよ」ぼくは含み笑いを洩らして、火の 付いたままのマッチを柳田の足元に投げつけた。「今すぐ、 もと来た道を引き返せ。そして、もう二度とこの村に戻って くるな。分かったか」 |
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「面白くない冗談だ」 柳田は馬鹿にしたように笑って、正面扉に手を掛ける。 「その店は終わってるんだろ、あんたは一体なんの用がある んだ?」 「この店の持ち主は私だよ。何も知らないくせに馬鹿な奴だ」 「知ってるさ、確かに書類の上ではそうなってるんだろうよ」 柳田の背後でカーテンが少し開き、美代子の顔が覗いた。 人の気配で様子を見に来たのだろう。そして、ぼくと柳田が 睨み合っているのを見て、明らかに激しいショックを受けた らしい。慌てて顔を引っ込めた。もう後には退けない。 |
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「引き返せないというなら、答えて貰おうか。お前は美代子 の何なんだ。保護者です、なんて言ったら承知しないぞ」 答はない。ぼくは続けた。 「何だ、言えないのか。その書類の中には美代子のことも書 いてあるのか? 答えてみろよ」 「お前は美代子の何だ?」 柳田の声は低くうめくようであった。 「何でもないよ、あんたに話すことなんか何もない。だけど ね、俺はあんたの邪魔をしてやると決めたんだ。そのために ここにいるのさ。退かせられると思うならやってみな。ほら、 |
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そこに電話がある。警察でも呼んだらどうだ? 逃げも隠れ もしないぜ」 お互い言葉を失い、睨みあったまま、じりじりと時間が経 っていく。敵意に満ちた沈黙を破ったのは、広場の向こう側 から聞こえてくるばたばたという足音だった。振り向くと、 高木、広瀬、谷川、大井、それに少し遅れて佐々木が、こち らに向かって走ってくる所だった。美代子が思い余って、宿 に電話したに違いない。建物の陰に隠れて成り行きを見守っ ていた美代子も、彼らの姿を見て表に出てきた。 「情けない奴だ、仲間まで連れてきたのか」柳田はさも軽蔑 |
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したようにいう。 「あんたの美代子が呼んだんだよ。これで分かっただろう。 あんたはいなくても構わない人間なんだ。分かったら、さっ さと帰れ。もう一度いうが、もう二度と帰ってくるな」 仲間たちと佐々木は、少し距離を置いて立ち止まった。彼 らにしても、どうしたらいいのか分からないのだ。そもそも、 ぼくと見知らぬ男がどういうわけで睨みあっているのかさえ 知らないのだ。分かるのは、それが美代子と関係があるとい うことだけだった。困惑した表情を浮かべている佐々木を一 瞥してから、ぼくは柳田に言った。 |
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「補償の話は済んでいるのか? 済んでないならさっさと済 ませるんだな。あんたは充分に金を受け取るはずさ。そうだ ろう? あんたがこの店を買ったのも補償の金目当てなんだ から、それで何の文句もあるまい。もう、この店にも用はな いだろう。勿論、美代子のことを心配するのも、余計なお世 話ってもんだ」 柳田は、ぼくが勝手に想像していたような、単に強欲に流 されただけの男ではなかった。ぼくの言葉に反撃する時には、 不敵な笑みさえ浮かべていた。 「おめでたい奴だな、お前は。成程、分かったよ。悪い奴か |
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ら女を救い出しにきた正義の味方気取りってわけか」と皮肉 たっぷりにいう。「自分をよく見てみろ、若造。お前は善人 か? どうなんだ? お前だって俺と同じじゃないか、同じ 穴の狢(むじな)って奴さ。違うか?」 柳田は怒りに燃えた目で美代子の方を見た。可哀そうに、 睨まれると美代子は震えるほど脅え、泣くのを堪(こら)える のが精一杯だった。それでも、大粒の涙がとめどなく零れ落 ちている。 「俺が何か無理強いしたとでもいうのか? あの子がそう言 ったか? そんなことはない。嫌ならここから出て行けばい |
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いじゃないか。この家は俺のものなんだからな。 俺は寛大な男だと思うがね。追い立てようとしたわけじゃ ない。俺には何の挨拶もなく、この子の母親は別の土地に働 きに出ちまったようだが、この子はこの店から離れようとし なかった。父親が帰ってくるかもしれないからって、美代子 はそう言ってたがね。ここを捨てたら父親の帰ってくる場所 がないってさ。まあ、待ってても無駄だとは思うが、俺はと にかく美代子の気の済むようにさせてやることにした。それ だけじゃない。生活の面倒だってみてやったんだ。こんな店 じゃ、美代子ひとりの食い扶持も稼げやしない。どうだ、俺 |
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は親切で立派な男だと思わないか? 少しばかりの見返りが あったって、どうってことないさ。それがどうだ、いつの間 にか若い男をたらしこんでいやがって。何も知らない馬鹿な 男に絡まれた俺の方こそいい面の皮だ。 言っておくが、俺はダム建設のお零(こぼ)れに与(あず)か っただけさ。俺が金儲けしてるのも、美代子の父親の蒸発も、 総てはダムのお陰だよ。見た所、お前もダム建設に関係があ るみたいじゃないか。違うか?」 自分がばらばらになってしまいそうだった。ともすれば萎 えてしまいそうな気持ちを必死で支えていなければならなか |
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った。それでも、もう柳田の目をまともに見返すことはでき そうになかった。彼は勝ち誇ったように付け加える。 「面白いことを教えてやるよ。あの子が嫌がってたと思うか? あれの時にさ。そうでもなかったよ。俺が何も言わなくたっ て、あの女は結構……」 柳田はそれ以上、喋ることができなかった。ぼくの中で何 かが破裂する音がして、気がつくと奴の腹を蹴り上げていた からだ。奴はうめき声を上げて蹲(うずく)まった。皆の前で、 美代子を侮辱したのは許せない。怒りに目が眩んで柳田に掛 かっていこうとすると、高木と広瀬がぼくの両腕を掴んで引 |
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き戻した。佐々木は柳田の方に駆け寄った。美代子も間に割 って入り、「お願い、もうやめて」とぼくを押さえる。そし て、堰(せき)を切ったように声を上げて泣き始めた。 柳田は佐々木に助け起こされて、覚束ない足取りでゆっく りと歩き始めた。自分が、元来た方に向かって。荒い息遣い の他は、もう何の言葉も無かった。ぼくはその後ろ姿に「美 代子の心配はもうするな。今度、現れたら殺してやるからな」 と言った。何の返事も無く、その後ろ姿も、やがて宵闇の中 に消えてしまった。 言葉もない虚無感の中、ぼくたちは舞台に立たされた役者 |
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さながら、それとなくお互いの動きに視線を配っている。た だ、美代子のすすり泣きが、ぼくたちを一つに繋いでいた。 「もう大丈夫だよ」 ぼくが静かに言うと、高木と広瀬は手を放した。美代子は この場を何とかしなければと思ったらしい。すすり泣きを押 さえると、 「待ってて、すぐ店を開けるから。珈琲でも飲んで行ってね、 いいでしょう?」 という。高木や広瀬は顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。 美代子が店の中に入っていくと、 |
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「時間が時間ですから、私はもう帰りますよ」と佐々木はい う。が、その目を上げてぼくの方を見ようとはしなかった。 「柳田がここに来ることはもうありませんよ。補償の話もす ぐに決着が付くでしょう。ただ、美代子はここにいられない かもしれませんがね」 「早かれ遅かれ、立ち退かなくてはならないんです」とぼく は答えた。「彼女の今後のことは、彼女と話してみます。で きるだけ、力にはなるつもりです。もう無関係というわけで はありませんから」 それを聞いてから、佐々木はぼくに背を向けて歩いていっ |
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た。皆の方を振り向くと、谷川は視線を合わせるのを避ける ように煙草に火を付け始めた。大井は下を向いている。高木 と広瀬はキャッチボールをする真似をしながら、先刻まで見 ていた野球の試合の話をしている。 ぼくは自分の体の中を風が吹き抜けるような気がした。 「珈琲、飲んでいかないか? 彼女が淹れてくれるって……」 尋ねると、高木はこっちを見るでもなく、キャッチボール の真似を続けながら、「いや、ぼくはいいです」という。 「プロ野球の試合、見てる途中なんですよ。それに、カノジ ョにも電話したいし。ご無沙汰だもんなあ」 |
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「随分、長いことデートしてないんだろ? こんな場所に閉 じ込められてさ。もっと大切にしてやらないと」と広瀬。 「大きなお世話だよ」 「谷川と大井は? ちょっと休んでいかないか?」 「いや、ぼくも遠慮しておきますよ。疲れたから、もう宿に 戻ることにします」 「じゃあ、行こうか」 大井に促されて、四人は連れ立って暗い広場を歩いていく。 皆の姿が見えなくなる頃になって、やっと店の正面扉が開き、 美代子が出てきた。 |
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「みんなは? みんな帰っちゃったの?」 うん、とだけ答えて、美代子を抱き寄せる。彼女はされる がままに体をぼくに預けた。そして、ぼくは彼女の髪に顔を 埋め、耳許(みみもと)で囁いた。 「みんな、勝手にすればいいさ」 |