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 ぼくを残して、仲間たちは村を去ることになった。仕事が

終わって、ぼくは休暇と合わせて、お盆の休みをこの村で取

ることにしたからだ。「そちらには暫く戻りません」と電話

で伝えると、上司の不満そうな声が聞こえてきた。が、そん

な事はぼくの知ったことではない。この村で美代子と過ごす

ことになる最後の一週間となるのだから。仲間たちは車に乗

り込む時には、既に滅びようとする村のことなど頭に無く、

嬉々として都会の日常へと帰っていった。

 佐々木とは、彼が仕事のついでに宿に立ち寄った時、一度

だけ会った。

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「仕事も無事終わったそうで、もうすぐ帰られると聞いたも

のですから」そう言いながら、彼はぼくの部屋に入ってきた。

「短い間でしたが、いろいろお世話に……」

「美代子のことなんですが」ぼくは佐々木の口ごもるような

挨拶を遮った。「多分、彼女は近い内に村を出ることになる

と思います。あの店は既にあの子の手を離れているわけです

からいいのですが、失踪した父親の事なんかをまだ気にして

いるようです。すみませんが、何か変わったことがあったら、

この先もあの子に知らせるなどして、後をお願いできません

か?」

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 言い方こそ丁寧だったが、声の調子には有無を言わさぬ響

きがあったと思う。美代子の身に起こった事を見過ごしたこ

とで、この村の人間に対する嫌悪を押さえきれなかったのだ。

「ええ、分かっていますよ、分かっています……」

 佐々木はもぞもぞ喋っていたが、言葉を途切らせると、そ

そくさと部屋を出て行った。その後、佐々木の姿を見掛ける

ことは無かった。

 宿の主人は最後までこの村に留まる者の一人となりそうだ。

「ダム工事の人間がこの宿を利用してくれる限りは、最後ま

で続けるつもりだ」といって、自嘲的な笑いを浮かべていた。

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しかし、ぼくとそんな話をするのも、よほど機嫌の良い時だ

けで、美代子との一件を耳にしてからは、最初に会った時の

ような無口でむっつりとした老人に戻っていた。

 もっとも、ぼくは殆ど宿に帰ることはなかった。美代子は

母親と連絡を取ったと言っていた。この村を出ることで話が

決まったという。昼間は美代子と先のことを話しながら、一

緒に荷物を片付けていたし、夜は彼女の傍で体を休めること

が多かった。美代子の母親は遠方の温泉旅館で仲居をしてい

ると、この時、美代子の口から初めて聞かされた。当面は母

親の働いている旅館で一緒に働けることになった、と美代子

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は嬉しそうに言う。美代子と一緒の夜を重ねる度に、ぼくは

彼女について何かしら新しい発見をした。肩の後ろにある十

字形の傷もその一つである。ぼくが赤く盛り上がった傷跡を

撫でながら、「これは?」と尋ねると、美代子はただ一言、

「お母さんと私だけの秘密よ」といった。

 居間の畳に寝転んで上を見上げると、鴨居に掛けられた写

真が目に入る。それが美代子の父親と母親だった。父親の方

はごく平凡な男で、後から顔立ちを思い出すのも難しいが、

人の良さそうなその笑顔だけは覚えている。記憶に残ったの

は母親の方で、細い顎の線ときれいな鼻筋をしいる。が、何

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より印象的なのは、その不自然に見開かれた目、外に焦点を

合わせているというより、そのまま自分の内側を見ているか

のような目だった。その顔には、ある種の人相的な特徴が現

れているように思えたが、それが何であるかは分からなかっ

た。

 部屋の片付けに大した時間は掛らなかった。片付けが必要

なのは、店舗部分とそれに続く美代子が日常に使っている部

屋だけで、さらに奥にも部屋はあるが、今は全く使われてい

ない。事実、建物の奥に通じる扉には鍵が掛けられ、それが

開いているのをついに一度も見ることは無かった。正面から

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見ただけでは分からなかったが、建物にはずっと奥行きがあ

った。もとは旅館として建てられたものなのだが、旅館とし

ての経営が成り立たなくなり、建物の前面を商店として改造

したのだという。

 運ばなければならないものはそんなに無かった。商売で使

っていたものは、運んでも何の役にも立たないので、そのま

ま置くことになった。「だって、もう土産物屋や喫茶店をや

るつもりは無いもの」と美代子はいう。梱包した荷物を、ひ

とまず知人の家に預けてしまうと、美代子には少し大き過ぎ

るボストンバッグだけが残った。

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 何も無くなった二階の部屋の窓から寂れた街並みを見渡す

と、煙が一筋、二筋と立ち上っている。先祖を迎える準備を

しているのだと美代子が教えてくれた。その煙が死者を地上

に導くのだ。

 夕方になると、神社の方から太鼓の音が聞こえてきた。村

の通りのそこここには、どこから現れたのか、お互いに挨拶

を交わしたり、いつまでも立ち話をしている人々が目につい

た。この村での最後の盆を過ごそうとする人々だった。

 低く呟くような、途切れながらも続いていく太鼓の音。二

人はそれに耳を傾けながら、横になっていた。隠すものは何

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も無く、言葉すら必要ないと思ったが、疲れて体を休めてい

る時には、美代子が子守唄がわりの話をしてくれた。自分の

身に起こった幾つかの出来事を淡々とした短い言葉で、時に

は言葉にならない声や、忍び笑いを交えながら話してくれた。

切れぎれの太鼓、水の流れの響き、美代子の囁き。その総て

をぼんやりと感じていた。

 夜になって、二人で神社に出掛けて見た。河に架かる橋を

渡り、幾つもの鳥居をくぐりながら、階段で山の斜面を上っ

ていく。境内では、人々が蝋燭(ろうそく)を灯した白い提灯

で足元をてらしながら、背を丸め、櫓(やぐら)の周りをのろ

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のろと歩いている。輪を作り、太鼓の響きに歩みを合わせ、

祈りの言葉を呟きながら。足元だけを照らし、お互いの顔が

見えないようにするのは、その輪の中に死者が混じっている

と伝えられているからだった。

 

 美代子が村を離れる時が来た。

 その日の朝早く、ぼくは彼女のボストンバッグを持って、

バスの停留所まで美代子を送っていった。一本だけしかな

い午前のバスを待ちながら、ぼくと美代子はちぐはぐな方

向を見ていたが、たまに目が合うと、微笑んだり他愛ない

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言葉を交わしたりした。やがてバスの近付いてくるのがエ

ンジン音で分かった。

「落ち着いたら、すぐに手紙を出すわ」

 美代子はそう言って、ぼくの手からボストンバッグを受

け取ろうとする。

「重いよ、大丈夫?」

「平気よ、このくらい」彼女はバッグを揺すってみせる。

「約束だよ、すぐに手紙をくれるって」

「ええ、約束するわ」

 美代子が答えた、その瞬間を引き伸ばそうとするかのよ

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うに、ぼくは美代子の目を見詰めた。改まって見詰められ、

彼女は微かな恥じらいの表情を見せる。心の中で考えては

いたけれども、言うまいと決めていた言葉が、つい口から

出てしまった。

「ぼくはもう君がいないと駄目なんだ。手紙が来たら、す

ぐ迎えにいくよ。そうしたら、ずっとぼくの傍にいてくれ

るって、約束してくれないか?」

 美代子は何も言わなかった。バッグを下に置いてぼくの

頭を抱き、愛撫するかのように唇をぼくの頬に押し当てる。

ぼくは彼女に抱かれて、息の詰まりそうな高まりを覚えた。

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 ぼくたちの前に退屈そうな顔をしたバスが停まり、ドア

を無造作に開く。美代子はぼくから離れ、バッグを抱えて

ステップに上る。彼女が一番後ろの席に腰を落ち着けると、

バスは不機嫌な唸りをあげて走り出した。道に独り残され

たぼくに向かって、美代子は手を振ってくれたが、その姿

はみるみる小さくなっていく。ぼくは足早に広場を横切り、

駅の中に入って行った。プラットフォームに出て、その端

に立つと、河に架かる橋が見える。丁度、バスはその橋を

渡ろうとしている所だった。バスはスピードを落として橋

を過ぎ、河の下流へと続く山裾の道に入っていく。そして、

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大きなカーブを走り抜けると、山裾を回った所でふっと視

界から消えてしまった。

 美代子の姿を見たのは、それが最後になった。

  

 引き続いて起こった出来事が、ぼくと美代子の間を永遠

に引き裂いてしまったのだ。というよりも、ぼくと美代子

が結ばれたなどと思う方が愚かだったのだ。美代子だけは

何もかも分かっていたわけだから。その後、彼女からの手

紙は無く、その消息も杳として知れない。渡されていた親

類の連絡先なども、総て存在しないものだった。

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 今になって、確かに感じることができる。ぼくに対する

気持ちの裏に隠されていた意志、もしかしたら、美代子自

身、気づいていないのかもしれない悪意を。ぼくは美代子

を少しも理解していなかった。ぼくの属している世界、ぼ

くが信じているものに対して、美代子は復讐しようとして

いたのかもしれない。

 それでも、彼女を恨んでいるわけではない。思い出は無

残に壊れてしまったけれども、その破片の幾つかは、今も

なお輝いている。

 

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 ぼくは残り少ない休暇をこの村で過ごすことに決めてい

た。何も慌てて帰る理由など無かったし、思い出深いこの

村をいつまでも記憶に留めておきたかった。

 美代子が村を離れた翌日は、朝からずっと雨が降ってい

た。ぼくは宿でごろごろしていたのだが、夕方、暗くなっ

てからやっと雨が止んだので、外へ散歩に出る気になった。

習慣になってしまったのか、足は自然に広場に向かった。

広場は巨大な廃虚さながら、がらんとして動くものもなく、

ただ雨で増水した河の音が異様な響きを立てている。この

世のものとは思えない風景の中にあってさえも、ぼくの心

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は甘い自己満足に酔っていた。

 宵闇の迫った広場に、駅正面の白熱灯が鋭い光を投げ掛

けている。その光の中に立って、見るともなしに美代子の

店に目を向けた。正面扉のガラスは、周囲の風景をそのま

ま映し出している。内側のカーテンは外されているので、

ガラスの向こう側は真っ暗な闇が限り無く続いているかの

ようだった。ぼくは山に囲まれた周囲の風景を眺めながら、

何となく引き寄せられるように、そのガラス扉に近付いて

いった。ぼくは店の前に立って、ガラス扉の中を覗き込ん

だ。その時だった。

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 ガラスの向こう側にあるものを見た時、その恐怖は殆ど

ぼくの意識を破壊するほどだった。美代子が去って、誰も

いないはずのガラスの向こう側に、女が独り立っていたの

だ。その細い顎の線や、どこに焦点を合わせているのか分

からないような、不自然に見開かれた目。それらは確かに

見覚えのあるものだった。

 総ての秘密は建物の奥、美代子以外の誰も入ったことの

ない奥の部屋にあったに違いない。美代子は自分の総てを

賭けて、母親を守ってきたのだ。見捨てられた母親は命を

脅かされ、部屋の鍵を手で破ったのだろう。ガラスに触れ

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ている指先からは、幾筋もの後を残して、血が滴り落ちて

いる。

 しかし、恐怖の頂点は、その女の顔にあった。女はぼく

を見ながら笑っていたのだ。それはぼくの全存在を否定し、

小賢(こざか)しい理性を叩き潰すかのような、声無き狂気

の笑いだった。

 耳を塞いでも、今も聞こえてくる。女の笑い声の代わり

にぼくの全身を震わせた、あのおぞましい水の響き、総て

の意志を砕きながら流れる狂った河の響きが。

   終

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