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仲間たちはぼくと美代子の間に、何か決定的なことが起こ ったらしいとすぐに勘付いた。当然のことだろう。今まで仕 事そっちのけで若い女の子に現(うつつ)を抜かしていた人間 が、ある夜、青い顔をして帰ってきたと思ったら、資料の完 成に向けて、仕事に没頭し始めたのだから。仲間たちはぼく と美代子の関係が、始めからうまくいくはずがないと思って いたに違いない。事実、その通りになったわけだが、仲間た ちの当たらず障らずの態度には、嬉しいような口惜しいよう な、複雑な思いがした。 測量図は八割がた完成していたし、資料も殆ど揃っている。 |
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根を詰めてやれば、三日程で完成するだろう。日一日と廃れ ていくこの村に居るのは、もう我慢がならなかった。憂鬱な 思い出を秘めた道、木陰、橋、駅、広場、何もかも水に沈ん で腐り果ててしまえばいい。 あの忌まわしい夜から数えて四日目の早朝、ぼくたちはこ の村を発った。その間は殆ど宿にいて、測量図や資料の作成 に掛かりきりだったこともあり、美代子とは一度も顔を合わ せなかった。勿論、彼女と会うことなど、ぼくの望む所では 無かったが。宿の主人と佐々木が見送ってくれた他は、人目 を忍ぶようなひっそりとした出発になった。ただ、その時だ |
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けは美代子の顔を見たいと思った。広場を出る時、彼女の店 を一瞥すると、正面のガラス扉にカーテンを掛けたまま、未 だ微睡(まどろ)む風情である。ぼくがいなくなって彼女が苦 しめばいいと、残酷な想像が脳裏を掠(かす)めたが、美代子 に愛人がいる分かっている以上、それも虚しかった。 しかし、ぼくがそんな呑気なことを考えていられたのも、 自分が必ずここに戻ってくることが分かっていたからに他な らない。そのことだけは美代子に知っていて欲しかったのだ が、結局、言わず終いになってしまった。 ぼくは傷ついた心を残したまま、車で運び去られた。その |
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日、空は憎らしくなるほど晴れ渡っていた。途中、夏祭のあ った温泉街を通ったのだが、朝早いのに、浴衣姿の観光客が 眠い目をこすりながらうろうろしている。いい気なものだ。 昨夜はさぞかし派手な賑わいだったのだろう。
総てがぼくの思惑に反するような動きをした。ぼくたちが 再び村に戻ったのは、わずか二週間後のことだった。寂れた 村でのんびりしている間に、ダム建設の方は急ピッチで準備 が進み始めたのである。 「随分、ゆっくりだったじゃないか」ぼくが言い訳を並べる |
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のを遮って、上司は皮肉たっぷりに言った。「今度は急いで 頼むよ、工事が近く始まることになったんだ」 ダムサイトとなる流域を干すために、その上流に仮設ダム を設置する。仕事の続きはその地点の詳細な測量と、それか ら市街地についても計測を部分的にやり直さなければならな かった。 「一週間でできるな、一週間で」 上司は意地悪く言ってくれたが、この時間の止まったよう な村にいると、そんな能率主義などすぐに忘れてしまう。夕 方になって、以前より一層寂しげに見える村に辿り着き、宿 |
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に荷物を下ろしてから、我々がしたことといえば「あーあ、 戻ってきちゃったよ」などと言いながら、憂さ晴らしに酒を 飲むこと位だった。あらかた酒も無くなると、ぼくは無性に 独りになりたくなり、久しぶりの夜の散歩に出た。仲間は暖 かい無関心というもので、見て見ぬふりをしてくれた。 ぼくは街を通り抜ける本通りに出ると、広場の中へは入ら ず、そのまま河の下流側に歩き始めた。広場を通り過ぎる時、 その奥のちょっとした光の加減で、美代子の店が開いている らしいと分かった。普段なら、とうに閉まっている時刻だ。 ぼくが来るのを待っているのではないか、ふとそんな想像が |
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頭を掠めた。が、それもつまらない思い付きと考え直し、ぼ くはそのまま通りを下っていった。二週間離れていただけな のに、何もかもが懐かしく、甘ったるい感傷に包まれている。 道なりに歩いて、そのままあの橋の上に出た。山の中腹には、 あの時と同じように神社の明かりがぼんやり見えている。橋 の中程まで来て立ち止まり、街並みを振り返った。一段と少 なくなった灯火を眺めながらぼんやり思うのは、やはり美代 子のことだった。夕方、広場に着いた時、美代子は店の奥か らぼくたちのことを見ていただろう。彼女にしても何かしら 感じる所はあるに違いない。それを知ることは、もう永遠に |
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できないかもしれないが。 気分の誘われるままに思いを巡らしていると、橋をこちら に向かって渡ってくる人影に気が付いた。ぼくは胸を締め付 けられるような驚きを味わった。それが美代子だと分かった からだ。ぼくはその場所を動くことができないまま、彼女が 近付いてきた時には、わざと顔を背けていた。 「こんばんは」と懐かしい声がする。 「やあ、君か」ぼくは真っ暗な河の面を見詰めたまま答えた。 「なぜ、ぼくがここにいると分かった?」 「あなたが広場の前を通り過ぎるの、見たのよ、偶然に」美 |
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代子はぼくの隣に立って、橋の欄干に凭(もた)れ掛かった。 「今日は遊びに来てくれると思って、店を開けておいたのに」 ぼくは皮肉な微笑を浮かべて黙っていた。 「東京に帰っていたの?」と美代子。 「うん」 「何も言ってくれなかったのね」 「まあね」とぼくは気の無い返事をした。 「どうしてなの?」 その声は低く呟くかのようだった。美代子は何かを感じ取 って、真っ直ぐな目をこちらに向ける。ぼくの方は闇の中に |
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踊る白い水飛沫をぼんやり眺めているだけだった。 「だって、……関係ないだろ」 考えもなく、つい皮肉が口を突いて出てしまった。 「関係ない? なぜそんなことを言うの?」 「別に……」 美代子はいつか必ずこうなる時が来ると知っていたに違い ない。彼女が黙っているので初めて彼女の方を見た。その時、 ぼくにはそれが分かった。哀しげな、だが勝ち気な表情を浮 かべて、美代子はそこに立っている。ぼくと目が合うと、彼 女は言った。 |
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「つまり、もう私のことは好きじゃないのね」 挑戦的な口調だったが、ぼくはそれをやり過ごすことに決 めた。 「見損なったよ、君のこと」 「見損なったって……、どういうことなの? 言ってごらん なさいよ」 もう聞き覚えのある可愛い声ではない。心の深淵から出る ような、黒い声だった。 「どういうことでもないよ」 ぼくはもう相手になりたくなかった。彼女がなぜ突っ掛か |
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ってくるのか理解できなかったし、始めから彼女を怒らせる つもりなど無かったのだ。 「誰かから何か聞いたの?」 彼女の問いに、ぼくは首を横に振る。 「この目で見たんだよ」 「まさか……、見たって、何を」 美代子は怒りと驚きの入り混じった声を上げた。ぼくは覚 悟を決めて頷いた。隠しても仕方がない。 「最低の人ね……、いやらしい、覗きに来るなんて」 「別に覗きに行ったわけじゃないさ」 |
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「それじゃあ、なんなの?」美代子は声を荒くする。 「ただ……」 「ただ? ただ何なのよ。……何かもっともらしい理由でも 言ってみなさいよ。痴漢同然の事しといて、私のこと見損な ったなんて、よくもそんなことが言えたわね。あんた、それ でも男なの?」 「何だと! もう一度いってみろ」 つい、かっとなって、ぼくは美代子の二の腕を荒々しく掴 んだ。 「いや、放して、放して、……放しなさいよ!」 |
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美代子は振り解(ほど)こうと、必死にもがいたが、ぼくが 手を緩めないと分かると、とうとう泣き始めた。泣きながら、 彼女は拳を上げて、ぼくの胸を叩き始めた。 「あんたなんか大嫌いよ。何も……、何も分からないくせに」 美代子の腕を捕まえてみても、どうしたらいいのか分から なかった。彼女を殴るなど、とてもできそうになかった。好 きだったのだ、その時になっても。しかし、彼女を傷つけ、 目茶苦茶にしてやりたかった。泣かれるのは、何より辛いこ とだったけれども。 「相手の男は誰なんだ」 |
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ぼくは激した心を押さえて、やっとそれだけ言うことがで きた。 「あんたには関係ないわよ」 彼女の腕をつかんだまま、ぼくは自分の体で美代子を橋の 欄干に押付けた。しかし、空いている方の手は、いつしか彼 女の体を抱きしめていた。 「なぜ……、なんでそんなにひどい仕打ちができるんだ、俺 が何をしたっていうんだ」 もう自分の意志ではどうにもならなかった。強い態度に出 ようとしたのに、美代子の髪に顔を埋めると、自分の声はま |
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るで泣き声のように聞こえた。 「ぼくは君を好きだと、そういったのに。そんな残酷なこと を言えるなら、どうして思わせぶりなことを……」 ぼくの声を聞いて、美代子は振り上げた拳を開き、ぼくの 頭を優しく抱いた。 「あなたを苦しませたいなんて……、そんなことを思ったこ とはないのよ。だけど、世の中には自分の意志ではどうにも ならないことが多過ぎるの。あなたにだって分からないこと が……」 彼女のその言葉、その言い方で、ぼくの中でわだかまって |
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いた曖昧な印象が、確かな像となって焦点を結んだ。ぼくの 体は彼女から離れ、その驚くべき考えが口を突いて出た。 「君の相手っていうのは、まさか……」 「あの人は私の恋人でも、叔父でもないわ。お願いだから、 もう何も言わないで」 美代子は哀しげな微笑を浮かべて、逆にぼくの手を取り、 自分の胸許に導いた。ぼくの手は躊躇(ためら)っていた。 風に揺れる木の葉のように、感情と意志と誘惑に翻弄されて。 「だから、……いいのよ」 美代子は目を閉じて、ぼくの耳許(みみもと)で囁いた。溜 |
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め息のような風に吹かれて、木の葉が舞い落ち、真っ暗な河 の流れに飲み込まれていく。ぼくの耳には流れの響きしか聞 こえていなかった。それでも、彼女は抱き締められながら囁 き続けた。言葉は感じることができただけだった。 自分の目で見たものだけを信じちゃけない、自分の心で感 じたものを信じるのよ。 私の言うことが分かる? 世間とか、社会とか、そんなものはみんなまやかしよ。汚 らしい嘘に塗れた奴らのものなのよ。 あなたは他の人たちとは違う、だから……。 |
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だからあなたは自分の心で感じたものだけを信じていて。 あなたにならそれができるわ。 何を感じてる? 私を欲しいのなら、それでいいのよ。
ぼくは今でも覚えている。 美代子の肩越しに目を開けると、一匹のホタルが青白い光 の線を描いて舞っていた。渓谷から吹き上げる風に、木々が ゆったりと揺れていた。美代子の髪のうっとりするような匂 いのこと。暗がりの中で光っているかのような白い肌のこと。 |
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二人の乱れた息遣いや、ぼくの口に残った不思議な味のこと。 ぼくは今でもはっきりと思い出すことができる。 |