P1 

 仲間たちはぼくと美代子の間に、何か決定的なことが起こ

ったらしいとすぐに勘付いた。当然のことだろう。今まで仕

事そっちのけで若い女の子に現(うつつ)を抜かしていた人間

が、ある夜、青い顔をして帰ってきたと思ったら、資料の完

成に向けて、仕事に没頭し始めたのだから。仲間たちはぼく

と美代子の関係が、始めからうまくいくはずがないと思って

いたに違いない。事実、その通りになったわけだが、仲間た

ちの当たらず障らずの態度には、嬉しいような口惜しいよう

な、複雑な思いがした。

 測量図は八割がた完成していたし、資料も殆ど揃っている。

NEXT PAGE 

 

 

 

 

 

 

 

*

P2 

根を詰めてやれば、三日程で完成するだろう。日一日と廃れ

ていくこの村に居るのは、もう我慢がならなかった。憂鬱な

思い出を秘めた道、木陰、橋、駅、広場、何もかも水に沈ん

で腐り果ててしまえばいい。

 あの忌まわしい夜から数えて四日目の早朝、ぼくたちはこ

の村を発った。その間は殆ど宿にいて、測量図や資料の作成

に掛かりきりだったこともあり、美代子とは一度も顔を合わ

せなかった。勿論、彼女と会うことなど、ぼくの望む所では

無かったが。宿の主人と佐々木が見送ってくれた他は、人目

を忍ぶようなひっそりとした出発になった。ただ、その時だ

NEXT PAGE 

 

 

 

 

 

 

 

*

P3 

けは美代子の顔を見たいと思った。広場を出る時、彼女の店

を一瞥すると、正面のガラス扉にカーテンを掛けたまま、未

だ微睡(まどろ)む風情である。ぼくがいなくなって彼女が苦

しめばいいと、残酷な想像が脳裏を掠(かす)めたが、美代子

に愛人がいる分かっている以上、それも虚しかった。

 しかし、ぼくがそんな呑気なことを考えていられたのも、

自分が必ずここに戻ってくることが分かっていたからに他な

らない。そのことだけは美代子に知っていて欲しかったのだ

が、結局、言わず終いになってしまった。

 ぼくは傷ついた心を残したまま、車で運び去られた。その

NEXT PAGE 

 

 

 

 

 

 

 

*

P4 

日、空は憎らしくなるほど晴れ渡っていた。途中、夏祭のあ

った温泉街を通ったのだが、朝早いのに、浴衣姿の観光客が

眠い目をこすりながらうろうろしている。いい気なものだ。

昨夜はさぞかし派手な賑わいだったのだろう。

 

 総てがぼくの思惑に反するような動きをした。ぼくたちが

再び村に戻ったのは、わずか二週間後のことだった。寂れた

村でのんびりしている間に、ダム建設の方は急ピッチで準備

が進み始めたのである。

「随分、ゆっくりだったじゃないか」ぼくが言い訳を並べる

NEXT PAGE 

 

 

 

 

 

 

 

*

P5 

のを遮って、上司は皮肉たっぷりに言った。「今度は急いで

頼むよ、工事が近く始まることになったんだ」

 ダムサイトとなる流域を干すために、その上流に仮設ダム

を設置する。仕事の続きはその地点の詳細な測量と、それか

ら市街地についても計測を部分的にやり直さなければならな

かった。

「一週間でできるな、一週間で」

 上司は意地悪く言ってくれたが、この時間の止まったよう

な村にいると、そんな能率主義などすぐに忘れてしまう。夕

方になって、以前より一層寂しげに見える村に辿り着き、宿

NEXT PAGE 

 

 

 

 

 

 

 

*

P6 

に荷物を下ろしてから、我々がしたことといえば「あーあ、

戻ってきちゃったよ」などと言いながら、憂さ晴らしに酒を

飲むこと位だった。あらかた酒も無くなると、ぼくは無性に

独りになりたくなり、久しぶりの夜の散歩に出た。仲間は暖

かい無関心というもので、見て見ぬふりをしてくれた。

 ぼくは街を通り抜ける本通りに出ると、広場の中へは入ら

ず、そのまま河の下流側に歩き始めた。広場を通り過ぎる時、

その奥のちょっとした光の加減で、美代子の店が開いている

らしいと分かった。普段なら、とうに閉まっている時刻だ。

ぼくが来るのを待っているのではないか、ふとそんな想像が

NEXT PAGE 

 

 

 

 

 

 

 

*

P7 

頭を掠めた。が、それもつまらない思い付きと考え直し、ぼ

くはそのまま通りを下っていった。二週間離れていただけな

のに、何もかもが懐かしく、甘ったるい感傷に包まれている。

道なりに歩いて、そのままあの橋の上に出た。山の中腹には、

あの時と同じように神社の明かりがぼんやり見えている。橋

の中程まで来て立ち止まり、街並みを振り返った。一段と少

なくなった灯火を眺めながらぼんやり思うのは、やはり美代

子のことだった。夕方、広場に着いた時、美代子は店の奥か

らぼくたちのことを見ていただろう。彼女にしても何かしら

感じる所はあるに違いない。それを知ることは、もう永遠に

NEXT PAGE 

 

 

 

 

 

 

 

*

P8 

できないかもしれないが。

 気分の誘われるままに思いを巡らしていると、橋をこちら

に向かって渡ってくる人影に気が付いた。ぼくは胸を締め付

けられるような驚きを味わった。それが美代子だと分かった

からだ。ぼくはその場所を動くことができないまま、彼女が

近付いてきた時には、わざと顔を背けていた。

「こんばんは」と懐かしい声がする。

「やあ、君か」ぼくは真っ暗な河の面を見詰めたまま答えた。

「なぜ、ぼくがここにいると分かった?」

「あなたが広場の前を通り過ぎるの、見たのよ、偶然に」美

NEXT PAGE 

 

 

 

 

 

 

 

*

P9 

代子はぼくの隣に立って、橋の欄干に凭(もた)れ掛かった。

「今日は遊びに来てくれると思って、店を開けておいたのに」

 ぼくは皮肉な微笑を浮かべて黙っていた。

「東京に帰っていたの?」と美代子。

「うん」

「何も言ってくれなかったのね」

「まあね」とぼくは気の無い返事をした。

「どうしてなの?」

 その声は低く呟くかのようだった。美代子は何かを感じ取

って、真っ直ぐな目をこちらに向ける。ぼくの方は闇の中に

NEXT PAGE 

 

 

 

 

 

 

 

*

P10 

踊る白い水飛沫をぼんやり眺めているだけだった。

「だって、……関係ないだろ」

 考えもなく、つい皮肉が口を突いて出てしまった。

「関係ない? なぜそんなことを言うの?」

「別に……」

 美代子はいつか必ずこうなる時が来ると知っていたに違い

ない。彼女が黙っているので初めて彼女の方を見た。その時、

ぼくにはそれが分かった。哀しげな、だが勝ち気な表情を浮

かべて、美代子はそこに立っている。ぼくと目が合うと、彼

女は言った。

NEXT PAGE 

 

 

 

 

 

 

 

*

P11 

「つまり、もう私のことは好きじゃないのね」

 挑戦的な口調だったが、ぼくはそれをやり過ごすことに決

めた。

「見損なったよ、君のこと」

「見損なったって……、どういうことなの? 言ってごらん

なさいよ」

 もう聞き覚えのある可愛い声ではない。心の深淵から出る

ような、黒い声だった。

「どういうことでもないよ」

 ぼくはもう相手になりたくなかった。彼女がなぜ突っ掛か

NEXT PAGE 

 

 

 

 

 

 

 

*

P12 

ってくるのか理解できなかったし、始めから彼女を怒らせる

つもりなど無かったのだ。

「誰かから何か聞いたの?」

 彼女の問いに、ぼくは首を横に振る。

「この目で見たんだよ」

「まさか……、見たって、何を」

 美代子は怒りと驚きの入り混じった声を上げた。ぼくは覚

悟を決めて頷いた。隠しても仕方がない。

「最低の人ね……、いやらしい、覗きに来るなんて」

「別に覗きに行ったわけじゃないさ」

NEXT PAGE 

 

 

 

 

 

 

 

*

P13 

「それじゃあ、なんなの?」美代子は声を荒くする。

「ただ……」

「ただ? ただ何なのよ。……何かもっともらしい理由でも

言ってみなさいよ。痴漢同然の事しといて、私のこと見損な

ったなんて、よくもそんなことが言えたわね。あんた、それ

でも男なの?」

「何だと! もう一度いってみろ」

 つい、かっとなって、ぼくは美代子の二の腕を荒々しく掴

んだ。

「いや、放して、放して、……放しなさいよ!」

NEXT PAGE 

 

 

 

 

 

 

 

*

P14 

 美代子は振り解(ほど)こうと、必死にもがいたが、ぼくが

手を緩めないと分かると、とうとう泣き始めた。泣きながら、

彼女は拳を上げて、ぼくの胸を叩き始めた。

「あんたなんか大嫌いよ。何も……、何も分からないくせに」

 美代子の腕を捕まえてみても、どうしたらいいのか分から

なかった。彼女を殴るなど、とてもできそうになかった。好

きだったのだ、その時になっても。しかし、彼女を傷つけ、

目茶苦茶にしてやりたかった。泣かれるのは、何より辛いこ

とだったけれども。

「相手の男は誰なんだ」

NEXT PAGE 

 

 

 

 

 

 

 

*

P15 

 ぼくは激した心を押さえて、やっとそれだけ言うことがで

きた。

「あんたには関係ないわよ」

 彼女の腕をつかんだまま、ぼくは自分の体で美代子を橋の

欄干に押付けた。しかし、空いている方の手は、いつしか彼

女の体を抱きしめていた。

「なぜ……、なんでそんなにひどい仕打ちができるんだ、俺

が何をしたっていうんだ」

 もう自分の意志ではどうにもならなかった。強い態度に出

ようとしたのに、美代子の髪に顔を埋めると、自分の声はま

NEXT PAGE 

 

 

 

 

 

 

 

*

P16 

るで泣き声のように聞こえた。

「ぼくは君を好きだと、そういったのに。そんな残酷なこと

を言えるなら、どうして思わせぶりなことを……」

 ぼくの声を聞いて、美代子は振り上げた拳を開き、ぼくの

頭を優しく抱いた。

「あなたを苦しませたいなんて……、そんなことを思ったこ

とはないのよ。だけど、世の中には自分の意志ではどうにも

ならないことが多過ぎるの。あなたにだって分からないこと

が……」

 彼女のその言葉、その言い方で、ぼくの中でわだかまって

NEXT PAGE 

 

 

 

 

 

 

 

*

P17 

いた曖昧な印象が、確かな像となって焦点を結んだ。ぼくの

体は彼女から離れ、その驚くべき考えが口を突いて出た。

「君の相手っていうのは、まさか……」

「あの人は私の恋人でも、叔父でもないわ。お願いだから、

もう何も言わないで」

 美代子は哀しげな微笑を浮かべて、逆にぼくの手を取り、

自分の胸許に導いた。ぼくの手は躊躇(ためら)っていた。

風に揺れる木の葉のように、感情と意志と誘惑に翻弄されて。

「だから、……いいのよ」

 美代子は目を閉じて、ぼくの耳許(みみもと)で囁いた。溜

NEXT PAGE 

 

 

 

 

 

 

 

*

P18 

め息のような風に吹かれて、木の葉が舞い落ち、真っ暗な河

の流れに飲み込まれていく。ぼくの耳には流れの響きしか聞

こえていなかった。それでも、彼女は抱き締められながら囁

き続けた。言葉は感じることができただけだった。

 自分の目で見たものだけを信じちゃけない、自分の心で感

じたものを信じるのよ。

 私の言うことが分かる?

 世間とか、社会とか、そんなものはみんなまやかしよ。汚

らしい嘘に塗れた奴らのものなのよ。

 あなたは他の人たちとは違う、だから……。

NEXT PAGE 

 

 

 

 

 

 

 

*

P19 

 だからあなたは自分の心で感じたものだけを信じていて。

あなたにならそれができるわ。

 何を感じてる?

 私を欲しいのなら、それでいいのよ。

 

 ぼくは今でも覚えている。

 美代子の肩越しに目を開けると、一匹のホタルが青白い光

の線を描いて舞っていた。渓谷から吹き上げる風に、木々が

ゆったりと揺れていた。美代子の髪のうっとりするような匂

いのこと。暗がりの中で光っているかのような白い肌のこと。

NEXT PAGE 

 

 

 

 

 

 

 

*

P20 

二人の乱れた息遣いや、ぼくの口に残った不思議な味のこと。

 ぼくは今でもはっきりと思い出すことができる。