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 灯の消えた村を通って人気のない広場に車が入っていった

時、美代子のことを見るともなしに見ていたぼくは、彼女が

さっと表情を変えたことに気が付いた。車が停まると、彼女

は慌ただしく席を立ち、「ありがとう、お休みなさい」と言

い残して車を降り、自分の店に急いで戻っていく。もう、ぼ

くの方を二度と見てはくれなかった。その様子に引っ掛かる

ものを感じ、ぼくは彼女の後ろ姿を目で追っていった。そし

て、気が付いた。美代子が家を出た時、店の中は真っ暗だっ

たはず。なのにその時、正面扉のカーテンの隙間から明かり

が洩れていたのだ。ぼくの思い違いでないとすれば、誰かが

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店の中に入り込んだことになる。美代子に断ることもなく誰

かが。

 宿に帰ってみると、丁度、佐々木が来ていて、宿の主人と

仲良く一杯やっている所だった。仲間は二階の部屋に上がっ

てしまったが、ぼくは挨拶する位のつもりで食堂に入って行

った。が、高ぶった感情と胸騒ぎのために、つい喋り過ぎて

しまった。気が付くと、ぼくは奔放な会話の中にどっぷりと

沈み込んでいた。

「祭に行ってきたんですか? 美代子ちゃんと?」佐々木は

上機嫌で話し始めたが、彼女の名前を出す時には言葉に微か

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な淀みを見せる。「そりゃあ、いいことだ。まあ、若い娘が

こんな村でくすぶっているのも、考えてみれば可哀そうなこ

とだからねえ……。喜んでたでしょう、若い人たち同士で遊

びに行けて」

「あれも気丈な娘だよな」酒で喉を湿しながら、宿の主人が

妙にしんみりとした口調で言った。「とにかく独りであの店

を切り盛りしてるんだから。泣き言ひとつ言わずにさ」

「ひとりって……」当然のことながら、ぼくにはその話が納

得いかなかった。「両親はどうしたんです? ……保護者が

いるでしょう。まさか、全くの一人暮らしじゃ……」

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 今まで確かめたことは無かったが、美代子の両親は近くに

住んでいると漠然と思っていた。例えば、父親は季節労働者

として働いているとか、母親は別に農業をしているとかで、

たまたま暇な店の番を美代子がしているのだと思っていたの

だ。そういえば、さっき見た店の明かりも、美代子の両親が

帰ってきていたというだけの話かもしれない。

 佐々木と宿の主人は顔を見合わせた。どっちが喋るのか、

お互いに探り合う様子だったが、宿の主人がぼそぼそと呟

いた。

「美代子の父親が借金を抱えて姿をくらましてから、母親の

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方はどうなったんだかな。そうそう、少し離れた所の旅館で

住み込みの仲居をしているという話だったかな」

 それを受けて、佐々木が低い声で付け加えた。

「あそこに住んでいるのは、あの娘ひとりだけですよ。一応、

土地家屋の持ち主は、借金の肩代わりをした美代子の叔父と

いうことになっているんですがね。だから、今の美代子の保

護者はその叔父ということになるのかねえ」

 佐々木は宿の主人に同意を求めようとしたが、老人の方は

物思いに耽っているのか、黙ったままである。佐々木は表情

を翳(かげ)らせながらも、話の先を続けた。話に要領を得な

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い所があるのは、酒のせいだったのだろうか。

「また、その叔父とかいう男が曲者(くせもの)でね。実を言

うと、美代子の家の借金の問題はまだ片がついていないんで

すよ。あの娘に何か聞いても、分からないと言って泣きじゃ

くるばかりだし」

 

 ダムの建設は、この村の内実を実際に目で見る以上に変貌

させていた。鉄道の廃線とダムの建設が、相互に関連がある

かどうかは分からない。が、鉄道が停まり、続いてダム建設

の話が持ち上がると、鄙(ひな)びた郷愁と渓谷だけを売り物

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にしていた村は、もはや首を絞められたも同然だった。最も

不運だったのは、例えば美代子の父親のように、この村の観

光事業にしがみついて、資金繰りのできなくなった者たちで

ある。彼らの旅館や商店は、土地の補償問題が始まる前に倒

産したり、割に合わない額で人手に渡ったりした。美代子の

父親は蒸発し、自殺する者も出る中、村は身を縮めて試練が

終わるのを待った。しかし、それが一段落すると、上品な情

趣を湛えたこの村は、投機の嵐の中に投げ込まれた。耕作す

るわけでもない農地を買い占めようとする豪農、赤字の採石

工場を億の金で買い取った東京の弁護士。俄(にわ)かブロー

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カーが徘徊し、補償の対象になるものには、何にでも値が付

き、二束三文のものが高額で取り引きされる。減る一方だっ

たこの村の人口も、この時だけは増加した。どこに子供が生

まれたわけでもなかったのだが。そして、この投機騒ぎに一

枚加わったのが美代子の叔父だった。その男は美代子の店の

他にも、この村に土地を所有しているらしい。彼が美代子の

父親の借金を肩代わりしたのは、勿論、それが安い投資だと

思ったからである。

 その夜、ぼくは疲れていたにも関わらず、よく眠ることが

できなかった。眠れないまま、ぼくは何度も考え直していた。

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ぼくたちが祭に出掛ける時、美代子は店の明かりを消したは

ず。それなのに、帰った時には明かりが付いていた。何度考

えてみても、思い違いということにはならない。美代子の両

親でないとすれば、美代子の叔父が帰っていたということに

なるのだろうか。それならそれで、なぜ一言もいってくれな

かったのだろう。祭に誘いに行った時の、美代子の棘々しい

表情が今更ながら思い出される。あれは何を意味しているの

だろう。彼女がこの場所にいつまでもとどまっているのは、

何か理由があるのではないだろうか。例えば、離れ難い恋人

が近くに……。美代子を取り巻く状況を考えていると、ぼく

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の胸の中で猜疑心がどこまでも膨らんでいくのだった。

 美代子は尽きることのない謎だった。彼女を見ている間は、

それだけで満足だったが、それも束の間のことで、姿が見え

なくなれば、見知らぬ場所に置き去りにされたような不安に

駆られるのだった。

 ぼくは開発や進歩に自分が関わっていると感じるのが好き

だし、それに誇りも持っている。幾何学で構成された世界や、

揺るぎ無い数式が導くものを信じている。とりわけ、そうし

た人智が我々にもたらすものを。しかし、猜疑心の中で、夜

の夢とも現実ともつかない世界を彷徨(さまよ)う時、直線に

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囲まれた図形は奇妙な形に歪み、揺るぎ無い世界は果てしな

い落下を始め、数式は何の意味も持たい呪文に変わる。ぼく

は掴(つか)み所のない現実を憎んだ。自分が子供のように無

力であることに我慢がならなかった。このままでは、気が付

いた時には、自分は彼女から永遠に隔てられているというこ

とになりかねない。何とかしなければ。

 あの出来事以来、ぼくは美代子に夢中で、彼女の傍にいる

ことがどうしようもない欲求になっていた。最早、二人を取

り巻く状況の違いも問題とは思わなかった。祭の翌日の夜に

は散歩に行くと言い残し、ぼくは仲間も仕事も放り出して出

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掛けようとした。何の相談をしたわけでもなかったのだが、

こうしたことにかけては、仲間は実に寛大な理解を示してく

れた。常軌を逸した行動だと思っていたのには違いないのだ

が。

 ぼくは美代子の店の喫茶室で珈琲を頼み、無駄話をしなが

ら、外に誘い出そうとした。ぼくが店を閉める手伝いをする

と、彼女は案外、気軽に応じてくれた。彼女がいつも言葉少

なに、微笑を浮かべながらぼくの隣を歩いていたのを思い出

す。この年頃の娘なら当然もっているはずの警戒心すら忘れ

てしまったかのように、人気の無い場所でぼくが肩に手を回

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しても、子供のように無邪気で無防備だった。ぼくの方はも

う夢見心地で、美代子に触れてさえいれば、胸の内に燻(くすぶ)

る不安も雲散霧消してしまう。この点では、ぼくの方がまる

で子供だった。自分の心の中を遠回しな言葉で伝えようとし

たこともあるが、彼女の態度をどう解釈したらよいのか分か

らない。曖昧な微笑を浮かべて、躊躇(ためら)うように何か

言おうとするのだが、結局は口を噤んでしまうことになる。

自分の腕の中にいる女の子の気持ちを確かめられないまま、

かと言って自分の気持を押付けるわけにもいかず、ぼくは気

ばかり焦っていた。

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 そう、自分の気持ちや欲望を押付けるわけにはいかない。

美代子を傷つけるような真似ができるはずがない。ぼくはそ

う思っていた。しかし、その夜、美代子と別れた後は、彼女

をこのまま失うことになるのではないかと思い惑い、夜も充

分に眠れない有り様だった。

 そして、恐れていたことが現実になった。本当に突然、想

像もできない残酷な形で。

 祭のあった週の終わり頃だったと思う。その晩も、ぼくは

彼女と逢って、村の外れまで来ていた。街並みを通り抜けた

道はここで行く手を山裾に遮られ、急に曲がって河に架けら

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れた橋へと続く。対岸の道から、山の急な斜面を昇って石段

が続いている。その先には神社が開かれていて、山の中腹に

ぼんやりとした明かりが見えていた。

 橋の袂(たもと)まで来て、ぼくがそのまま渡って行こうと

すると、美代子は急に帰りたいと言い出した。変わりやすい

気分はいつものことだが、ぼくと二人だけで暗い河を渡るの

を恐れたのかもしれない。ぼくは安心させようとしたけれど、

彼女は執拗(しつよう)に嫌がった。

「今夜はもう駄目よ」

「どうして?」ぼくも子供のように問い返した。「心配する

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ことなんか何もないよ」

「どうしても、どうしても帰らなきゃ、私」

 美代子の言い方は、まるで自分が恐ろしいことをしている

のに急に気が付いたかのようだった。ぼくには訳が分からな

かったが、その様子からして今夜はもう駄目らしいというこ

とだけは分かった。

「明日の夜は? 明日の夜、また逢ってくれるよね」

 ぼくが心許なく尋ねても

「分からないわ、そんなの」

 と彼女は大きく首を振る。

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「明日の晩、とにかく話はそれから、いいだろう?」

「分からないってば」

 美代子はぼくの視線から逃れようとするかのように、落ち

着き無く周囲を見回す。ぼくは自分の方を見て貰おうと、彼

女の手を捕らえた。

「約束してくれないなら帰さないよ」

「本当に分からないのよ、お願いだから……、お願いだから、

もうそんなこと言わないで。手を放してくれないなら、もう

二度と口を利いてやらないから」

 美代子は手を振り払うばかりか、ぼくの体を押し戻した。

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躓(つまず)いて、ぼくは危うく倒れる所だった。文句を言お

うとして振り向くと、小走りに走っていく美代子の後ろ姿が

見えた。

 ぼくは橋の上に独り置き去りにされ、鬱々と考え込んでし

まった。その時だけは語り掛けてくるような、優しい水の音

を聞きながら。それから、少し時間を置いて自分の宿の方に

帰っていったのだが、その時、一人の男が明かりのない美代

子の店に入っていくのを見てしまった。見たことのない中年

の男だった。その男が美代子の叔父なのだろうと思って納得

しようとした。美代子が急に帰ると言い出したのも、叔父が

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来ることが予(あらかじ)め分かっていたに違いない。そう考

えれば納得いく。が、しかし、胸の内で何かが違うという声

がする。何かがおかしい、何かが狂っていると。

 一度、宿に帰り、その日はそのまま寝てしまおうと思った

が、妙な胸騒ぎは納まらなかった。思いを巡らせば、美代子

への漠然とした不安がどっしりと伸し掛かってくる。もうど

うすることもできなくなった所で、ぼくはふらふらと外に出

た。もう真夜中近くで、帰ってきてから思い詰めた顔をして

いたぼくが、再び外に出て行こうとするのを仲間たちは不安

そうに見ているだけだった。何をしようとしていたのか、自

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分にも分からない。だが、何をするにせよ、それをどう正当

化するか、歩きながら様々な口実を自分に向かって言い聞か

せていた。

 ――ぼくは彼女のことを離したくない。彼女のことが好き

なんだ。彼女も……、そう、美代子だって同じ気持に違いな

い。そうでなかったら……。何の悪いこともあるものか、お

互いに大人同士なのだし、ぼくは無責任な男じゃない。美代

子を傷つけたいなんて、これっぽっちも思ったことはないん

だ。ただ自分の好きな人のことをもっと知りたいと思っただ

け、そうさ、当然のことじゃないか。

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 ぼくは広場を横切り、その奥の方にある建物に足を向けた。

そして、鉄枠に一枚ガラスを嵌め込んだ正面扉の前に立った。

カーテンは閉まり、内側の明かりは消えている。正面を避け

て、建物の横に廻ってみた。窓が開いていたが中に光は無い。

しかし、ぼくには確かに感じられた。河の流れる音の中に埋

もれた人の気配を。ぼくの足は震え始めた。こんなことをす

るべきじゃなかった。知らない方が良いことだって世の中に

はあるのだ。が、もう後戻りはできなかった。吸い寄せられ

るように窓に近付くにつれて、ただの気配だったものが、空

気を乱す律動となり、確固とした音になっていく。それは二

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人の人間から吐き出される呼吸の律動であり、意味を失った

言葉と声だった。しかし、その声には確かに聞き覚えがあっ

た。最早、間違えようのない、次第に高く、速く、昇りつめ

ていく息遣い。窓の中に白く動くものが見えたように思った

が、よく分からない。もう頭では何も考えることができなか

った。意識は行き場を失った感覚で一気に押し流されてしま

ったから。

 ぼくは無我夢中でその場を離れ、無人の駅の中へ迷い込ん

で行った。永遠に到着しない列車を待っているかのように、

プラットホームを行ったり来たりする。じっとしていると、

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体がばらばらになってしまうような気がした。目は光を求め

て、暗闇の中を泳ぎ周る。自分の身に起こったことを理解す

るのに時間が必要だった。そして、この単純な事柄を理解し

てしまうと、ひどい吐き気に襲われた。プラットホームから

線路に這い降り、雑草と落ち葉に埋もれた枕木に足を取られ

ながら歩いて行く。線路の向こう側を流れている河にやっと

のことで身を乗り出すと、眼下に渦巻く暗闇と忌まわしい水

音に向かって、何もかも吐き出してしまった。

 空っぽになった体の中に、言葉の破片が虚ろに木霊(こだま)

した。こんな馬鹿げたことが起こりうるのか、こんな茶番に

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流されていくのか、ぼくにとっての現実というものは。