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 八月に入ったある日のこと、退屈そうにぼくたちがぼんや

り窓の外を眺めていると、宿の主人が見るに見兼ねたのか、

面白いことを教えてくれた。今夜、下流の方にある温泉街で

夏祭りがあるという。祭に行くとなれば異存のある筈もなく、

全員で出掛けることになった。「美代子も誘おう」と言った

のはぼくだが、「ご執心ですね」と誰かが含み笑いをしなが

ら呟いたのには、聞こえない振りをした。ぼくが美代子に気

があるということは、誰も口にこそ出さないが、公然の秘密

になっていたのである。

 皆が道を確かめたり、車を準備している間、ぼくは美代子

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を呼びにいった。店の表扉にはカーテンが掛けられ、明かり

も消えていたので、建物の横に回って裏口を叩いた。夜、い

きなり訪ねてこられて、彼女は驚いたというよりも、ひどく

慌てた様子だった。

「困るわ、夜、いきなり来られたら」

「驚いた? だけどまだ七時だよ。そんなに遅い時刻じゃな

いだろ」

「一体、何の用なのよ」と美代子は口を尖らせる。

「ご挨拶だな、そんな言い方しなくたっていいじゃないか。

今夜、下の町で夏祭やってるの、知ってる? これからみん

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なで行くんだけど、一緒にどう?」

 彼女が横を向いていつになく真剣な表情で考えるものだか

ら、居心地の悪い思いをさせられた。まるで何か隠し事でも

あるかのようだ。だから彼女が「いいわ」と答えた時には安

心が先に立ち、不覚にも彼女が一瞬見せた棘々(とげとげ)し

い表情を見逃してしまった。

「広場で待ってて、支度するから」美代子はそう言って奥に

引っ込む。

 ぼくたちが広場に集まって待っていると、程なく美代子が

店の表から出てきた。からんころんと黒塗りの下駄の音を響

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かせ、こちらに歩いてくる彼女を見て、ぼくたちは皆、一様

に微笑を浮かべた。紺地に白いあやめをあしらった浴衣姿で、

薄紅の幅広の帯を締め、先刻の表情は嘘のように、楽しげに

笑った口許を団扇(うちわ)で隠している。

「へえ、かわいいな」広瀬が呟いた。

「馬子にも衣装だな」といったのは高木だが、美代子に下駄

で蹴られ、慌てて「冗談だよ」と付け加えた。

 川に沿って車を三十分ほど下流に走らせると、川岸全体が

光に包まれたようになっているのが見えた。手前で車を降り、

歩いて街中に入っていくと、狭い道は観光客も交えて人が溢

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れている。人影のない景色にすっかり慣れてしまっていたぼ

くたちは、興奮を押さえることができなかった。温泉を観光

資源にした街の客寄せの祭だが、温泉も持たず、ダムの建設

予定地となって消えていこうとする上流の村と、それは著し

い対照を為していた。

 ぼくたちは露店を冷やかしながら道を進んでいく。高木や

広瀬たちは「こんなに人がいる」といってはしゃいでいるし、

美代子は美代子で気の向くままに歩いている。物売りの威勢

のいい声がすればそちらに走り、可愛い兎を売っているとい

えばその前に座りこんでしまうのだった。当然のことながら、

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ぼくは彼女から目を離すことができなかった。彼女を見てい

るのが楽しかったのだ。

 そうしている内に、気が付けば仲間とはぐれ、ぼくと美代

子は二人だけになっていた。

「みんなとはぐれちゃったよ」ぼくはそう言って彼女の袖を

引っ張った。「高木たちはさっきまで金魚掬いをやってたん

だけどな」

 ぼくが心配して周囲を見回しているのに、美代子は別のも

のに気を取られている。

「大丈夫よ、子供じゃないんだから。ねえ、それよりあっち」

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 彼女にねだられては逆らえない。一度、人混みの中に仲間

が見えたような気がして、そっちへ行こうとしたが、美代子

は無言の内にぼくの手を取り、引き留めた。そして、彼女の

手はそのままずっとぼくの腕に添えられてあり、ぼくはその

ひんやりした手がいつまでも離れることがないよう、心密か

に願わずにはいられなかった。

 方向も定めずに歩いていると急に人の混雑が途切れ、渓流

の際に出た。切り立った岩場の下から聞き慣れた響きが伝わ

ってくる。対岸はすぐ山肌になっていて、重なり合った樹木

が黒々とした陰を作っている。近くに吊り橋が掛っていて、

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何組かの男女がぶらぶらその上を歩いたり、立ち止まって遥

か下を流れる川を覗き込んだりしている。

「ぼくたちも行ってみようか」と言うと、うん、と彼女は頷

く。

 ぼくは黒々とした闇に惹きつけられ、美代子と一緒に吊り

橋を渡っていった。対岸には川に沿って遊歩道があり、ぼく

たちはそこに立って、木陰から対岸の喧騒を眺めた。枝から

枝から枝へと渡された電線から七色の提灯が下がり、その向

こう側から沸き上がる光と音が、夜空へと立ちのぼる。河を

挟んで、それは蜃気楼のように遠く隔たっているように見え

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た。ぼくたちの前には深く落ち込む暗黒が口を開いている。

その奈落の底からは、岩に当たって砕け散る水の音、心をか

き乱し、胸の奥を黒く塗り潰すような、流れの音が響いてく

る。別世界のような向こう岸からの明かりに照らされ、ぼん

やりと浮かびあがっている岩肌に、美代子はその柔らかな体

を預けた。

「深いのね……」

 闇の中に吸い込まれるのを恐れるかのように、美代子はぼ

くの腕をしっかりと握って、なおも切り立った崖の下を覗き

込もうとする。

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「何か見える? 乗り出すと危ないよ」

 ぼくは彼女を押さえて、その細い腰に手を回した。浴衣に

包まれた美代子の体は、若鮎のようにしなやかだった。

「私、なんだか恐いわ」

 ぼくの手の中にある体は微かに震えを帯びながらも、岩を

深く削り取った水の流れ、狂おしい響きの源を見ようと、前

に乗り出していく。それにつれて、ぼくの腕も深く彼女の体

に巻き付いていった。

 手があらぬ方に動きかれた時、ぼくは、はっと息を呑んだ。

美代子が声を立てずに泣いているのが分かったからだ。彼女

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は泣きながら小鳥のように震えている。抱き起こすと、美代

子は涙を見られまいとして、ぼくの胸に顔を埋めた。

「どうしたの? 怒ってるの?」

 耳元で囁くと、美代子はゆるやかに頭を振り、ぼくの胸の

中で黒髪がさらさらと揺れた。涙を流しながらも美代子は笑

顔を浮かべようとする。表情を隠していても、それが分かっ

た。

「君と二人きりになりたいんだ。いいだろう?」

 その時、ぼくの口から出た言葉がこれだった。ぼくは彼女

を手に入れることだけしか考えない、憐れなほど愚かな男だ

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った。自分の腕の中にある人を、自分の都合だけで解釈しよ

うとした。それは自分の性からすれば当然の事なのか、或い

は、何か外からの力がぼくにそうさせたのだろうか。

「馬鹿なこと言わないで……」

 美代子はもう一度、ぼくの腕の中でゆっくりと頭を振る。

「君のことが本当に好きなんだよ」

 この言葉で美代子は急に顔を上げ、ぼくの目の中を覗き込

んだ。彼女の目、その瞳の一瞬の閃きの中で彼女は何を思っ

ていたのだろうか、ぼくはその率直な視線に、だらしなくも、

ただ、たじろぐばかりだった。

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 不意に空高く爆竹がなり、この木陰の空気までも震わせた。

二人を外の世界から隔てていた膜が破れ、ぼくたちも我に返

った。祭はもう終わろうとしている。河の向こう側の音、現

実の喧騒がどっとばかりに押し寄せてくる。

「大変、みんな心配しているわ。早く帰らないと」

 美代子はぼくの腕からするりと抜け出ると、遊歩道を下り、

橋の上をころころと音をたてて駆けていく。仕方無く、ぼく

も急いで彼女を追った。再び人込みに紛れて、河の音が耳か

ら離れてしまえば、一分前の出来事もただの幻かと訝(いぶか)

るばかりだった。横にいる美代子を見れば、ただ無邪気に笑

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っているだけである。

 車の停めてある場所に着くと、仲間は既に集まっていて、

ぼくたちの帰りを待っていた。

「ごめん、待たせちゃったかな?」

 ぼくが声を掛けると、

「いや、そうでもないけど……」

 といって、高木が意味ありげな笑いを洩らす。

「どこ行ってたんです? 二人して」

 広瀬はやや問い詰めるような口調でいう。

「みんなとはぐれちゃって、捜したんだけど見付からなかっ

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たんだよ」

 そう言いながら、ぼくは美代子の方を盗み見たが、彼女は

黙って俯(うつむ)いている。

「わざとはぐれたんでしょ、分かってるんですよ」広瀬が運

転席に乗り込みながらいった。「隅に置けない人だなあ、も

う」

「悪かったよ、さあ帰ろう」

 ぼくは皆を促し、美代子が車に乗るのを手伝ってやると、

わずかに振り返った彼女の物思わしげな視線にぶつかった。

川辺で見せた感情の高ぶりは、その瞳の中にいつまでも消え

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ぬ情熱となって残っている。ぼくはそれを見てやっと信じる

ことができた。あの出来事は夢や幻では無かったのだと。