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 夕食後、食堂で図面を描いていると、玄関先から「やあ、

あんたか」という宿の主人の声が聞こえた。その声で宿の主

人は酔っているらしいと分かった。彼は夜になると、殆ど必

ず酒を飲んでいて、時にはそのまま酔い潰れてしまうことも

あるようだ。昼間は不機嫌な老人であるが、酒が入ると饒舌

になるのが常だった。何か良からぬことが起こりそうな気が

して聞き耳を立てていたが、それも要らぬ心配だとやがて分

かった。二人はダムの誘致派と反対派という立場の違いはあ

るものの、以前から親しくしていた間柄で、それは今も変わ

っていないことが、時には粗野な言い方を含めた遠慮のない

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話し振りで察せられた。やがて廊下の軋む音が近付いてきた

と思うと、鉛筆の動きを止めて盗み聞きをしているぼくの前

に、佐々木が現れた。服装も昼間会った時のままで、手には

ハンカチを握り締めている。彼はぼくの前の椅子に腰を下ろ

すと、「お邪魔しますよ」と言って、ほっと一息入れた。宿

の女中がビールを運んでくると、彼は待ち兼ねたように口に

運ぶ。彼が喉を鳴らしているのを眺めながら、

「ここの主人もダムの建設反対派の一人で、説得にあたって

いるというわけですか」

 と尋ねると、

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「いや、この宿の補償問題もケリが付いていますし、ここの

主人が反対運動をしているというわけでもないんですが……」

と、彼はハンカチで口を拭いながら答える。「とにかく、頑

固な老人でしてね」

 そこで彼はふと言葉を途切らせ、物思わしげな表情を見せ

た。

「この宿の主人とは以前から親しくしていて、まあ、家ぐる

みの付き合いだったんですよ。……昔は世話になったもんで

す。とにかく彼にはダムのことを理解して貰わんことには、

個人的にも気がすまんのですわ。ちょっと、あなたからも話

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して貰えませんか。私だけの力ではどうも……。専門家がい

てくれた方が助かる」

 尤もらしいことを言うが、この二人はダムの話を種に、晩

酌をしたいのではないかと思った。

「私はダム事体の事は何も……、ただの測量技士ですから」

 断ろうとすると、

「まあ、そう言わずに。この通りお願いします」と頭を下げ

る。「いや、あのじいさんは酒が入ると人の話なんか聴かん

のですわ。私も今日は一日歩き回って疲れているし、一人よ

りは二人の方がいと思いましてね。ちょっと晩酌でもやるつ

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もりでどうですか?」

 ぼくは渋々承知して、佐々木の後について宿の主人の部屋

に入って行った。一番奥の部屋が一杯に開け放たれていて、

こじんまりとした部屋の中央に置かれたは食卓と、何をする

でもなくそれに向かっている宿の主人の姿が見えた。食卓の

上には、乾き物が少し残った木の皿、三本のお銚子、それに

三つのぐい飲みが置かれている。ぼくが加わることを予期し

ていたようだ。ぼくと佐々木が部屋に入っていくと、自分の

向かい側に座るよう、手で示した。腰を落ち着けるなり、酔

いでどんよりと曇った目をぼくに向け、訥々と喋り始めた。

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「もう分かっていると思うがね、わしはこのダム工事を良く

思っていない。この歳で金を握らされても、どう使ったらい

いのか分からんしな」

 宿の主人はぼくの前にぐい飲みを置き、酒を注いだ。佐々

木の方は何もいわずに勝手に始めている。老人はしゃがれた

自分の喉に酒を流し込むと、舌を縺(もつ)れさせながら話を

続けた。

 支離滅裂ながらも、老人の言いたいことはこういうことら

しい。つまり、この村をダムの底に沈めるのは、水道局や建

設会社の利潤を優先させる行政の身勝手に過ぎない。ダムが

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建設されれば、治水、産業用水確保を確実にするなどという

話も単なる誤魔化しである、と。

 あのダムができたために何が起こったか、知っているの

か? と老人は続けた。「あのダム」というのは、尾根を一

つ越えた所にある、ずっと以前に完成している大規模ダムを

指している。ダムができて以来、その上流では頻繁に洪水が

起こるようになった。その被害は年を追うごとに増えて、洪

水で放棄せざるをえない部落も現れた。その部落は洪水の後

も生々しく、今もそのままの姿で放置されている。公団側は、

洪水とダムの関連はないとしているが、住民は皆、ダムがで

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きたために河床が上昇した結果だと信じている。ダムが急流

を塞き止め、運ばれてきた土砂が沈殿し、多い所では十メー

トル以上も河床が上昇しているらしい。ダム内部では、技術

者が算出した百年分の堆砂量を突破するのに、二十年も掛ら

なかった。ダムが堆砂に埋まってしまうのも時間の問題で、

事実、三十年に一度の豪雨が来ても治水能力では問題なしの

はずだったのが、ちょっとした豪雨でダムから水が溢れ出す

騒ぎが起こっている。

 老人の話を聞きながら、ぼくはぼんやり考えていた。しか

し、だからといって我々にどうしろというのだろう。この村

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が駄目なら、他の所にダムを作らなければならない。ダムが

土砂に埋まって役目を果たさなくなれば、我々はさらにダム

を作り続けることだろう。こうした循環は誰にも止められな

いことなのだ。成る程、ダムの中には失敗例だってあるだろ

う。しかし、我々のすること総てが失敗とは限らない。ダム

は生活用水を貯え、電力を供給して、多くの人々の生活を支

えている。この老人だってその恩恵に浴しているに違いない

のだ。それとも、進歩から目を逸らして、もと来た道を引き

返すのだろうか。

「そりゃ、確かに洪水ぐらい、前にもあったよ。だけどな、

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家が水没するようなことは無かったんだよ。むしろ、洪水に

なれば土壌が肥沃になって、周辺の桑畑なんかは豊作が約束

されたようなものだった。わしらが子供の頃は洪水で流れて

きたものを拾って歩くのが楽しみで……」

「過去に縋(すが)ってちゃいかんでしょう」

 ぼくの隣で話を聞いていたのかいないのか、静かに酒を飲

んでいた佐々木が、老人の話に口を挟んだ。

「私だって、あなたと同じで、昔から住んでるこの村に愛着

があるのは変わりませんよ。だけど、このままじゃこの村は

時代に見棄てられる。村が滅んでいくのを黙って見てるわけ

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にもいかんでしょう。ダムが建設されるとなれば、ある者は

ダム建設そのもので、ある者は補償金によって生活を立て直

せる。私は思ったんですよ、とにかくやり直す時が来たんだ

って……」

「そんなものは嘘だよ、あんた、騙されてるんだよ」

 今度は老人の方が皮肉な口調で遮った。「向こう側のダム

の建設で地元の村に何が起こったか、あんただって知らない

わけじゃあるまい。他所者(よそもの)がどっさり入り込んで、

始まったのは乱痴気騒ぎだ。静かな村だったのに、殺人事件

まで起こる始末だ。なまじ大金を握ったが為に、破滅した人

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間だって沢山いるんだ」

 宿の主人は言葉を切った。酒のためか、或は高ぶった感情

のためか、もう考えも纏(まと)まらない様子であったが、や

がてまたぶつぶつと、ぼくを諭すように話し始めた。

「わしは何も君たちの言う発展にけちをつけようとしている

わけじゃない。まあ、河を潰すことが発展だとは思わんが…

…。ダムが流す、あの緑色の濁流を見たことがあるかね? 

ああなったら河は終わりだよ。わしは自分の育った河が滅び

るのを見たくないんだよ。なんで放っておいてくれないのか

な、あんたらは。何もダムなんか作らなくたって、どうせこ

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の村は死んでいくのに。自分の生まれた場所で死にたいって

のが、悪いことかね、あんた。

 都会って奴は、我々から何でも取り上げちまうんだ。木も、

水も、人も、土地もな。わしはろくに学校も行っとらんが、

学者の紙に書いた計算を鵜呑みにするほど馬鹿じゃないよ。

君は東京から来たそうだが、狂った河というのを見たことが

あるかね。そう、あの河は狂ってるんだ。あんたたちの手に

は負えないよ」

 測量図を完成させる間にも、我々の周囲で進みつつある微

妙な変化は感じられた。固く結んだ手から少しずつ水の洩れ

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るように、村から人が去っていく。残された者も自分の順番

を数えつつ、諦めの中に平和を見出している。我々は所詮、

都会の人間であり、故郷を捨てる人々の表情を見て少しは神

妙にすることはあっても、相変わらず意味もなく元気で、滅

んでいく村から影響を受けることなどありそうになかった。

ただ、夜になると何もすることがないのには、皆、閉口して

いたようだ。宿の主人はあの夜以来、つまり佐々木を交えて

ぼくと話し合って以来、我々に対しては随分と打ち解けた態

度を示すようになった。時にはぼくたちの暇潰しのビールに

付き合い、他愛無い昔話をして機嫌良く笑っていたりする。

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村人たちも我々の顔を覚えてしまうと好意的なもので、そこ

から敵意を嗅ぎ出すことはできなかった。が、敵意を持って

我々を見ていたものもいたに違いない。それから美代子のこ

と。ぼくたちが佐々木と親しく言葉を交わすようになってか

らというもの、彼女の態度の中に何か冷たいものが残るよう

になった。表面は何も変わらなくとも、お互いの立場をはっ

きり意識したようで、目に見えぬ溝ができてしまったのだ。

それを一番気に病んでいたのは、他の誰でもない、ぼく自身

だったのだけれども。