P1 |
夕食後、食堂で図面を描いていると、玄関先から「やあ、 あんたか」という宿の主人の声が聞こえた。その声で宿の主 人は酔っているらしいと分かった。彼は夜になると、殆ど必 ず酒を飲んでいて、時にはそのまま酔い潰れてしまうことも あるようだ。昼間は不機嫌な老人であるが、酒が入ると饒舌 になるのが常だった。何か良からぬことが起こりそうな気が して聞き耳を立てていたが、それも要らぬ心配だとやがて分 かった。二人はダムの誘致派と反対派という立場の違いはあ るものの、以前から親しくしていた間柄で、それは今も変わ っていないことが、時には粗野な言い方を含めた遠慮のない |
NEXT PAGE |
*
P2 |
話し振りで察せられた。やがて廊下の軋む音が近付いてきた と思うと、鉛筆の動きを止めて盗み聞きをしているぼくの前 に、佐々木が現れた。服装も昼間会った時のままで、手には ハンカチを握り締めている。彼はぼくの前の椅子に腰を下ろ すと、「お邪魔しますよ」と言って、ほっと一息入れた。宿 の女中がビールを運んでくると、彼は待ち兼ねたように口に 運ぶ。彼が喉を鳴らしているのを眺めながら、 「ここの主人もダムの建設反対派の一人で、説得にあたって いるというわけですか」 と尋ねると、 |
NEXT PAGE |
*
P3 |
「いや、この宿の補償問題もケリが付いていますし、ここの 主人が反対運動をしているというわけでもないんですが……」 と、彼はハンカチで口を拭いながら答える。「とにかく、頑 固な老人でしてね」 そこで彼はふと言葉を途切らせ、物思わしげな表情を見せ た。 「この宿の主人とは以前から親しくしていて、まあ、家ぐる みの付き合いだったんですよ。……昔は世話になったもんで す。とにかく彼にはダムのことを理解して貰わんことには、 個人的にも気がすまんのですわ。ちょっと、あなたからも話 |
NEXT PAGE |
*
P4 |
して貰えませんか。私だけの力ではどうも……。専門家がい てくれた方が助かる」 尤もらしいことを言うが、この二人はダムの話を種に、晩 酌をしたいのではないかと思った。 「私はダム事体の事は何も……、ただの測量技士ですから」 断ろうとすると、 「まあ、そう言わずに。この通りお願いします」と頭を下げ る。「いや、あのじいさんは酒が入ると人の話なんか聴かん のですわ。私も今日は一日歩き回って疲れているし、一人よ りは二人の方がいと思いましてね。ちょっと晩酌でもやるつ |
NEXT PAGE |
*
P5 |
もりでどうですか?」 ぼくは渋々承知して、佐々木の後について宿の主人の部屋 に入って行った。一番奥の部屋が一杯に開け放たれていて、 こじんまりとした部屋の中央に置かれたは食卓と、何をする でもなくそれに向かっている宿の主人の姿が見えた。食卓の 上には、乾き物が少し残った木の皿、三本のお銚子、それに 三つのぐい飲みが置かれている。ぼくが加わることを予期し ていたようだ。ぼくと佐々木が部屋に入っていくと、自分の 向かい側に座るよう、手で示した。腰を落ち着けるなり、酔 いでどんよりと曇った目をぼくに向け、訥々と喋り始めた。 |
NEXT PAGE |
*
P6 |
「もう分かっていると思うがね、わしはこのダム工事を良く 思っていない。この歳で金を握らされても、どう使ったらい いのか分からんしな」 宿の主人はぼくの前にぐい飲みを置き、酒を注いだ。佐々 木の方は何もいわずに勝手に始めている。老人はしゃがれた 自分の喉に酒を流し込むと、舌を縺(もつ)れさせながら話を 続けた。 支離滅裂ながらも、老人の言いたいことはこういうことら しい。つまり、この村をダムの底に沈めるのは、水道局や建 設会社の利潤を優先させる行政の身勝手に過ぎない。ダムが |
NEXT PAGE |
*
P7 |
建設されれば、治水、産業用水確保を確実にするなどという 話も単なる誤魔化しである、と。 あのダムができたために何が起こったか、知っているの か? と老人は続けた。「あのダム」というのは、尾根を一 つ越えた所にある、ずっと以前に完成している大規模ダムを 指している。ダムができて以来、その上流では頻繁に洪水が 起こるようになった。その被害は年を追うごとに増えて、洪 水で放棄せざるをえない部落も現れた。その部落は洪水の後 も生々しく、今もそのままの姿で放置されている。公団側は、 洪水とダムの関連はないとしているが、住民は皆、ダムがで |
NEXT PAGE |
*
P8 |
きたために河床が上昇した結果だと信じている。ダムが急流 を塞き止め、運ばれてきた土砂が沈殿し、多い所では十メー トル以上も河床が上昇しているらしい。ダム内部では、技術 者が算出した百年分の堆砂量を突破するのに、二十年も掛ら なかった。ダムが堆砂に埋まってしまうのも時間の問題で、 事実、三十年に一度の豪雨が来ても治水能力では問題なしの はずだったのが、ちょっとした豪雨でダムから水が溢れ出す 騒ぎが起こっている。 老人の話を聞きながら、ぼくはぼんやり考えていた。しか し、だからといって我々にどうしろというのだろう。この村 |
NEXT PAGE |
*
P9 |
が駄目なら、他の所にダムを作らなければならない。ダムが 土砂に埋まって役目を果たさなくなれば、我々はさらにダム を作り続けることだろう。こうした循環は誰にも止められな いことなのだ。成る程、ダムの中には失敗例だってあるだろ う。しかし、我々のすること総てが失敗とは限らない。ダム は生活用水を貯え、電力を供給して、多くの人々の生活を支 えている。この老人だってその恩恵に浴しているに違いない のだ。それとも、進歩から目を逸らして、もと来た道を引き 返すのだろうか。 「そりゃ、確かに洪水ぐらい、前にもあったよ。だけどな、 |
NEXT PAGE |
*
P10 |
家が水没するようなことは無かったんだよ。むしろ、洪水に なれば土壌が肥沃になって、周辺の桑畑なんかは豊作が約束 されたようなものだった。わしらが子供の頃は洪水で流れて きたものを拾って歩くのが楽しみで……」 「過去に縋(すが)ってちゃいかんでしょう」 ぼくの隣で話を聞いていたのかいないのか、静かに酒を飲 んでいた佐々木が、老人の話に口を挟んだ。 「私だって、あなたと同じで、昔から住んでるこの村に愛着 があるのは変わりませんよ。だけど、このままじゃこの村は 時代に見棄てられる。村が滅んでいくのを黙って見てるわけ |
NEXT PAGE |
*
P11 |
にもいかんでしょう。ダムが建設されるとなれば、ある者は ダム建設そのもので、ある者は補償金によって生活を立て直 せる。私は思ったんですよ、とにかくやり直す時が来たんだ って……」 「そんなものは嘘だよ、あんた、騙されてるんだよ」 今度は老人の方が皮肉な口調で遮った。「向こう側のダム の建設で地元の村に何が起こったか、あんただって知らない わけじゃあるまい。他所者(よそもの)がどっさり入り込んで、 始まったのは乱痴気騒ぎだ。静かな村だったのに、殺人事件 まで起こる始末だ。なまじ大金を握ったが為に、破滅した人 |
NEXT PAGE |
*
P12 |
間だって沢山いるんだ」 宿の主人は言葉を切った。酒のためか、或は高ぶった感情 のためか、もう考えも纏(まと)まらない様子であったが、や がてまたぶつぶつと、ぼくを諭すように話し始めた。 「わしは何も君たちの言う発展にけちをつけようとしている わけじゃない。まあ、河を潰すことが発展だとは思わんが… …。ダムが流す、あの緑色の濁流を見たことがあるかね? ああなったら河は終わりだよ。わしは自分の育った河が滅び るのを見たくないんだよ。なんで放っておいてくれないのか な、あんたらは。何もダムなんか作らなくたって、どうせこ |
NEXT PAGE |
*
P13 |
の村は死んでいくのに。自分の生まれた場所で死にたいって のが、悪いことかね、あんた。 都会って奴は、我々から何でも取り上げちまうんだ。木も、 水も、人も、土地もな。わしはろくに学校も行っとらんが、 学者の紙に書いた計算を鵜呑みにするほど馬鹿じゃないよ。 君は東京から来たそうだが、狂った河というのを見たことが あるかね。そう、あの河は狂ってるんだ。あんたたちの手に は負えないよ」
測量図を完成させる間にも、我々の周囲で進みつつある微 妙な変化は感じられた。固く結んだ手から少しずつ水の洩れ |
NEXT PAGE |
*
P14 |
るように、村から人が去っていく。残された者も自分の順番 を数えつつ、諦めの中に平和を見出している。我々は所詮、 都会の人間であり、故郷を捨てる人々の表情を見て少しは神 妙にすることはあっても、相変わらず意味もなく元気で、滅 んでいく村から影響を受けることなどありそうになかった。 ただ、夜になると何もすることがないのには、皆、閉口して いたようだ。宿の主人はあの夜以来、つまり佐々木を交えて ぼくと話し合って以来、我々に対しては随分と打ち解けた態 度を示すようになった。時にはぼくたちの暇潰しのビールに 付き合い、他愛無い昔話をして機嫌良く笑っていたりする。 |
NEXT PAGE |
*