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 翌日から早速、市街地やその周辺の測量が始まった。村の中

はひっそりと静まり返り、朝から動き回っているのはぼくたち

だけだった。時折、通り掛かる村人たちが我々に胡散臭げな視

線を投げてよこす。ダム工事に直接携わる者でこの村に入った

のは、我々が最初だといってもいい。まだ補償問題が片付いて

いなかったし、ダム工事に反対する者も残っていたのである。

しかし、有り体に言って、そんなことは我々の知ったことでは

なかった。ダムが建設されれば、治水、農工業用水の確保、発

電等に利用できるばかりではない。この付近の土地開発には欠

かせないものになのはずだ。ダム一つの利用価値に比べれば、

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このちっぽけな村が水の底に沈むことくらい、取るに足らぬこ

とだと思っていた。

 我々の仕事は、ダム建設の予備工事のため、平板測量によっ

て建設予定地の詳細な測量をすることだった。ダムの建設は一

大事業である。建設に先立ち、資材の輸送設備、給水設備、骨

材工場、機械工場、倉庫、宿舎が必要になる。そのため、付近

の道路状況、鉄道施設、電気設備、主要な建築物などを正確に

把握しなければならない。いずれにしても、この先十年を掛け

て行われる事業であり、計画段階のごたごたもまだ残っている

状態だったので、急がなければならない仕事ではない。日程的

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には余裕があり、我々は気楽に仕事をすることができた。朝、

宿を出て、夕方、暗くなる頃に帰ってくるまで、測量機材を担

いで道という道を隈なく歩き回る生活が、こうして始まった。

 彼女を初めて見たのは、測量を初めて二日目のことだった。

朝、ぼくたちが眠い目をこすりながら広場にやってくると、例

のクリーム色をした外壁をした建物の表扉が一杯に開かれてい

て、その前で一人の若い女の子が熱心に箒を使っている。この

村には年取った人間しかいないらしいと思い始めた所なので、

ひどく意外な気がした。ぼくたちは若い男ばかり五人だったも

ので、皆、見るともなく彼女を見ていたが、その女の子の方は

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我々の存在など見ることも感じることもできないかのように、

一心に手を動かしつつ、下を向いたまま目を上げようとしない。

また、その建物が、土産物やちょっとしたお菓子、飲み物の類

を売っている商店なのだということも初めて知った。

 夕方、広場に戻ってくると、ぼくはその女の子の店に独りで

入って行った。別に何の考えもあったわけではない。喉が乾い

て、何か飲み物が欲しかったからだ。彼女に興味が無かったと

いえば、それは嘘になるかもしれないが。

 店に入っていくと「お帰りなさい」と声がして、奥からあの

娘が応対に出てきた。朝見た時と同じく、薄いブルーの上着を

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肩に掛け、中には柔らかな記事の白いワンピースを着けている。

「どうも」と答えて、彼女の視線を避けるかのように、店の中

をきょろきょろ見回した。

「暑いね、何か冷たい飲み物はない?」

「ラムネでいい?」

 言うが早いか、彼女は飲料水のケースから青い瓶を取り出し、

慣れた手付きでガラス玉を瓶の中に落としていた。

「どうぞ」

 涼しげな音を立てる瓶を受け取る時、ぼくは初めて彼女をそ

のつもりで見た。流れるように肩まで垂れた黒髪の中に色白の

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顔があり、紅を差しているのだろうか、くちびるの色が鮮やか

に映えている。眠りから覚めたばかりのように重たげな瞼の下

には、憂いを含んだ瞳があった。その瞳の奥を覗き込んだ時、

一瞬、自分を憐れむような気持ちが消えて無くなるかのような

気がした。ぼくの視線に気が付くと、彼女は笑顔を作って見せ

たが、ぼくの方は逆に恥ずかしくなって視線を逸らしてしまっ

た。彼女の目を覗き込んだ瞬間のことを、ぼくはその後、何度

も繰り返し思い浮かべることになった。飾り気の無い、その姿

が銀盤写真のように焼き付き、それをためつすがめつしている

内に、以前どこかで会ったことのあるような、奇妙な懐かしさ

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を胸に覚えるようになった。

 瓶を片手に持ち、ぼくは必要もなく慌てながら、もう一方の

手でポケットの中をまさぐり、白銅貨を取り出して彼女に渡し

た。

「お釣りね」

 そう言って、彼女は硬貨をぼくの手の中に押し込んだ。渡す

というよりも、手の中に押し込むという感じだった。一瞬、自

分の手の中にあったしなやかな指と冷たい銅貨の感触、それは

何かの始まりを告げる不思議な符号のような印象を残した。

「この店、ご家族でやってるの? それともアルバイト?」

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 ぼくは勇気を奮い起こして尋ねた。

「いいえ、店をやっているのは私一人よ」

 この答えの異常さに、その時は気が付かなかった。

「へえ、いいね。この店は君の趣味が出てるね。自分の店を持

ってるなんて羨ましいよ」

「もうすぐ、水の底に沈むわよ」

 彼女は横を向いて答えた。ぶっきらぼうなその口調で、自分

が無神経なことを言ったことに気が付いた。「そうなったらど

うするの」とは、気になっても訊くことはできなかった。機嫌

を損ねてしまったのか、彼女はすっとぼくから離れ、飲料水の

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ガラスケースの向こうに立って、もうそこから動こうとはしな

かった。

 ぼくは所在無く、ラムネの瓶をからから言わせながら店の中

を眺めていた。扉から入って正面には大きな木製の飾り棚があ

り、細々した土産物や、変り映えのしないプラスチックの玩具

が並んでいる。あくまでも可愛らしさを優先した品物の並べ方

や、賑やかな色彩が店を華やかにしていた。壁に沿っては、も

っと沈んだ色合いの棚がしつらえられ、木彫の民芸品や陶器が

並んでいる。右側の壁には、この近くの風景を描いたと思われ

る木炭画が額に納めて掛けてあるが、飾りなのか売り物なのか

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分からない。店の奥半分は床が一段高くなり、喫茶室なのだろ

うか、カウンターとそれを囲む数脚の椅子があった。飲料水の

ケースは店舗と喫茶室を分けるように置いてあり、彼女はその

横に立って、ガラス越しに窺うような視線を送ってくる。ぼく

は空の瓶を置きながら「ごちそうさま」と言ったが、彼女は黙

ったままだった。ぼくは自分の軽口を呪いながら、店を出て行

くことになった。

 次の日からぼくは独りで、或いは仲間と一緒に、その店に度

々出入りするようになった。殆ど毎夕、その店に寄っては飲み

物を買っていた。カウンターに座って珈琲を飲むこともあれば、

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ビールを貰うこともあった。ぼくたちが入っていくと、彼女は

いつも「お帰りなさい」という言葉で迎えてくれる。数日も経

つと、その言葉を聞かなければ仕事が終わらないような気分に

なっていた。彼女の方も慣れてくると、茶目っ気たっぷりの表

情を見せてくれるようになった。いつしか、ぼくは彼女を見て

いるのが好きになった。彼女の名前は美代子、歳は二十だった。

 

 測量の仕事が進んで、広場とその周辺の計測が始まった。宿

からも近く、ぼくたちはのんびり世間話をしながら、広場を動

き回った。暇な時には美代子も店から出てきて、我々のやるこ

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とを物珍しそうに眺め、時には手伝いもしてくれた。広瀬が

「こっちの端、持ってて」と巻尺の一端を渡すと、「うん、い

いよ」と答えて、美代子はしゃがみこんで端を押さえる。広瀬

は「いい助手ができて便利だ」とか言いながら、道路の向こう

側まで走っていく。そんな光景を目にする度に、ぼくたちは大

笑いしたり、嫉妬にも似た甘酸っぱさを感じたりした。高木が

赤と白に塗り分けられたポールを持って歩いていると、美代子

もその後に付いてちょこちょこ走り回り、電柱の規格を書いた

ボードを撮影しようとすると、自分も一緒に写真に収まろうと

する。

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「ちょっと、記念写真じゃないんだけど」

 文句を言うと、「いいじゃないの」と口答えする。

「まあ、いいや」

 折れるのは、いつもこちらである。店で美代子の機嫌を損ね

て以来、何となく彼女には逆らえなかった。だから資料として

提出した写真の何枚かには、猫の真似をしたり、ピースとやっ

ている美代子が写っている。

「知りませんよ、課長にこの女は何だって訊かれたら、何て答

えるんです?」

 生真面目な大井がぼくに尋ねる。

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「変な通行人がいたんだって答えるさ。よくあることだよ」

「そうかなあ」

 彼の心配など気にも留めず、美代子はぼくたちの間を歩き回

って仕事の邪魔をしようとする。

「ねえ、これなあに?」

 時にはぼくも面倒臭くなって、「店に誰もいなかったら困る

だろ」と遠回しに言ってみても、「どうせ、誰も来やしないわ

よ」と言うだけだ。

「それより、これなに?」

「アリダードっていうんだよ」ぼくはスコープの中を覗きなが

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ら答えた。

「望遠鏡になってるの?」

「まあね」

「見せてよ」

「今、水平角を測っている所だから、また後でね」

 次に美代子は、平板の下に糸で吊るされた錘に目をつける。

「これは?」

「求心機……、あ、蹴っちゃだめ」

 抜けるような青空の下、笑い声を上げている美代子や、巻尺

やポールを持ってうろうろしている我々の邪魔をするものは何

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も無かった。形を変えながら流れていく雲と、時折、通り過ぎ

る風に揺れる木々の枝、動くものといえばそれだけだった。そ

して、その総てに日差しがたっぷりと注がれ、我々の肌にちり

ちりとした刺激を残した。その奇妙な風景に慣れてしまった我

々には、ただ長閑(のどか)としか感じられなかったが、誰かが

息を殺して我々を見詰めているような、そんな感覚に時折襲わ

れることがあった。それは静か過ぎることから来る気の迷いだ

としか、その時は思わなかったけれども。

 

 そんな或る日、邪魔をするだけの美代子を交えて広場周辺の

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計測を続けていると、初老の男が通り掛かった。

「ご苦労さまです」

 ハンカチで額を拭いながら、彼は我々に近付いてくる。白い

ワイシャツにネクタイという出で立ちで、村の人間ともダム工

事の関係者とも付かなかった。

 彼は近くまで来ると「こんにちは、美代子ちゃん」と言って、

彼女に探るような一瞥をくれた。美代子はその瞬間、彼に背を

向けたまま立ち竦(すく)むかのように見えたが、「私、帰る」

とつっけんどんに言い残し、自分の店の方に走り出した。

「何だ、あいつ、変な奴だな」

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 広瀬が呆気に取られて彼女の後ろ姿を眺めていると、

「いいんです」とその男はいう。「私はあの娘にあまり好かれ

てませんでね」

 我々が訝(いぶか)しげに黙っていると、彼は言葉を繋いだ。

「いえね、ダム工事に関係のある人間は誰でも嫌いなんですよ、

あの娘は。まあ、無理ないのもしれないけどねえ」

「だから、俺たちの邪魔をしているのかな」

 高木は苦笑いを浮かべて、皆を見回した。

「申し遅れましたが、私は以前この村に住んでいまして、今は

ダム工事のために住人との交渉に当たっている者です」

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 と言われても、何と答えたらいいのか分からない。差し出さ

れた名刺を受け取り、確かめると、役所関係の人間だと分かっ

た。名前は佐々木とある。

「ああ、成る程、我々は測量を担当している者です」

 ぼくは興味が無いのを隠す程度の曖昧な返事をした。

「で、交渉は難航しているんですか?」

「いや、もともとここは鉄道が廃線になって以来、大した観光

資源も無くて寂れていく一方でしたから……、他の地域に比べ

れば、きっと楽なんでしょうがね。水没する面積だって高(たか)

が知れてるし。しかし、とにかく補償問題で金が絡むといろい

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ろあるのが常でして……。

 ところで、この先の流水館に泊まってらっしゃるんですか? 

そうですか。それじゃあ、後でまたご挨拶に伺いますよ」

 それだけ言って、男は道を戻っていった。