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 水の音。

 雨の降る日には何をする気力もなく、こうして膝を抱え、

アパートの窓から外を眺めている。目に映るものはすぐ先で

行き止まりになっている小道。隙間無く並んだ家並みで、囲

い込まれているかのような都会の路地だ。眺めてはいても、

何かを見ているわけではない。ただ過去の出来事を繰り返し

思い浮かべているだけだ。こうしていると記憶の中から、ひ

とつの風景が浮かび上がってくる。心の目が、記憶の中にあ

る街をさまよう。あの家も、あの橋も、あの鳥居も、今は水

底に消えてしまった。美しかったあの村に、人は手をつける

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べきではなかった。そうすれば、あの村を訪れることも、彼

女に出会うことも無かったはずなのに。

 

 二十代最後の夏。ぼくは漠然とした失望感を抱いたまま、

東京を離れようとしていた。右も左も分からないまま仕事を

こなしている内に、いつの間にか自分の二十代が終わろうと

している。そんな苦い思いが意識を蝕んでいた。立ち止まっ

て現実を見詰めれば、自分の胸に大きく口を開けた空洞と向

き合わなければならない。だから、繁忙の中に身を置いてい

るほうが良かったし、例え短い間であっても退屈な日常から

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逃れられるのが嬉しかった。

 昼近く、ぼくたちはバンに機材を積んで出発した。一緒に

車に乗り込んだ仲間は全員ぼくよりも年下で、取りあえずは

ぼくが責任者ということになっている。冗談を言っては笑っ

ている高木と広瀬、それとは対照的に無口な谷川、年に似合

わぬ落ち着きのある大井。それにぼくを加えて、チームは五

人だった。高木と広瀬が運転していたら何かと心配な所だが、

大井に運転を任せておけば何も考えることはなく、ただ目的

地に着くのを待っていれば良い。

 七月も中旬の空気は蒸し返され、道路は焼け付くかのよう

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だった。日差しは容赦なく照り付け、ぼくたちの肌をじりじ

りと焦がしていく。車の冷房装置も大した役には立たず、皆

うんざりして喋る者もない。うつらうつらと頭を泳がせたり、

黙って外の風景を眺めている。やがて、遠く灰色に霞んでい

た山々が燃え上がるような緑色に変わり、目の前に迫ってき

た。車は緑色の谷間に入り込み、息を切らせながら坂を昇り

始める。いつしか眠っていたぼくは、大きく揺さ振られて目

を覚ました。小石の弾ける音がする。車は所々舗装の切れた

狭い道に入り込んでいた。急なカーブや道の窪みに出会う度

に、胃を押さえられるような気分を我慢しなければならなか

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った。

 途中、道が特に細くなっている所で、塗装が剥げ、錆の浮

き出たトラックに出会った。バンを脇に寄せて停まると、そ

のトラックは奇妙な音を立ててぼくたちの横を通り過ぎてい

く。荷台には貧弱な家財道具が一杯に積まれていて、それが

おかしな音を立てるのだった。トラックの後ろにはトラクタ

ーが一台隠れていて、疲れた顔の農夫が運転していた。ぼく

たちは皆、その二台から目を離すことができなかった。これ

から自分たちがやろうとする事に関係があると直感したから

だ。

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 その細い道を走っている間、ぼくが何気なく目で追ってい

たものは、道路に沿ってずっと続いている一本の線路だった。

真っ赤に錆ついて、時々は深く茂った草の中に姿を没してい

たり、枕木だけしか残っていない所もあるが、鮮やかな赤い

軌跡はぼくの網膜に傷を残すかのように、風景の中をゆらゆ

らと流れる二本の線となって目に残った。

 やがて山裾が迫り、その間が深い渓谷になっている所に出

た。切り立った崖の下を水が白い飛沫を上げているのが見え

る。車は山裾を回っていくが、線路の方は道路から離れてト

ンネルに入り、その時だけは視界から消えた。山裾が最も迫

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った場所を通り抜けると、意外な広さの平らな土地が上流の

方に向かって開けていた。このような地形がダムの建設には

理想的なのだ。川は右側の山に沿って地面を深くえぐりなが

ら流れ、左岸に沿ってはさびれた家並みが息を潜めるように

並んでいる。人の住む気配もない、滅びようとする村の姿だ

った。

 川には二本の鉄橋が並んで掛かり、一本は赤く錆びた線路

が、もう一本には道路が走っている。川の右側を走っていた

ぼくたちの車は鉄橋を通って街の中に入っていった。夕闇が

迫っているのに、灯火は数えるほどしか見えない。道を進ん

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でいくと、右側が突然ひらけ、広場の中に入ってやっと車は

停まった。その広い場所が何なのか、最初は分からなかった。

三方を山に囲まれ、投げ掛けられた夏の残光が、その山肌を

紫や青の斑に染め上げている。ぼくたちはバンから降りると、

陰影のある風景の中、長く伸びた自分たちの影を眺めたり、

飛び交うコウモリを追いかけたりした。

 やがて広場の奥にある建物は駅舎だということに気が付い

た。この広場は、駅前で車を回したり、駐車したりするのに

使われていた場所らしい。もう誰も使っていないはずなのに、

一対の白熱灯が駅の正面を照らしている。試しに中に入って

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みると、コンクリートのプラットフォームの下を走る線路は、

茶色の石や枕木の間から伸びた草に隠れそうになっていた。

列車が最後にここを通ってから、もう随分長い時間が経つに

違いない。線路のさらに向こう側は急に地面が落ち込み、そ

の下を川が流れているらしい。水のざわめきが低く迫って聞

こえてくる。その響きはすぐに風景の一部となり、その後は

滅多に意識にのぼることはなかった。

 広場を囲んでは、一般の商店、土産物屋、旅館といった類

の建物が並んでいる。鉄筋コンクリート作りで、構えの大き

なものが多い。かつては観光客で賑わったこともあったのか

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もしれないが、もはや想像もできなかった。近寄って中を覗

いてみれば、住む者もなく見棄てられているものが少なくな

かった。人が住んでいると思われる建物も、外壁は風雨の為

すがままに傷み、遅かれ早かれ、住む者に去られる運命を物

語っている。

 中でも一際ぼくの目を惹いたのは、クリーム色をした外壁

の建物で、建物の正面が広場に接するのではなく、狭い前庭

を置いて少し引っ込んで建っていた。近づいてみれば、壁に

灰色のひびが縦横に走り、庇はぼろぼろにこぼれている。正

面は左右に開く引き戸になっていた。その扉の鉄枠にはよく

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磨かれた一枚ガラスがはめ込まれている。中はガラスの内側

に引かれたカーテンのために見えなかったが、隙間から微か

に明かりが洩れている。ぼくは可愛らしい花を散りばめたカ

ーテンを眺めている内に奇妙な感覚に襲われた。それは、カ

ーテンの小さな花を背景に自分の姿が黒い影のように映って

いたためかもしれないし、ガラスに大きな蛾が止まったまま

死んでいたからかもしれない。

 ぼくたちは大地に足を付けて元気を取り戻すと、無駄口を

叩きながら荷物を下ろし始めた。荷物といっても、平板測量

に使う機材と個人々々の荷物だけで、大した手間も掛からな

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い。手が空くと、ぼくたちは刻々と光を失っていく風景の中

で、またあてどなく歩き回り始めた。

 五人の中では最も年の若い広瀬が、駅の改札から内側に向

かって鋭い口笛を吹いた。

「誰もいないよ、さっき中を見てきたよ」とぼくは後ろから

声を掛けた。「廃線になって何年も経つんだから」

「廃線の駅とは思えませんよね。中から誰か出てくるんじゃ

ないかと思って」

「もう使われていないといっても、この駅、結構役に立って

るんだろ。街の人だって、ここを明るくしておきたいだよ。

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街の中心にある駅に明かりが無かったら、本当にゴーストタ

ウンだもんな。それに、ダムの工事が始まれば、駅の施設が

役に立つのかもしれないし」

 ぼくは話しながら周囲を見回した。谷川と大井は地面に並

べた荷物の傍で、低い声で喋りながらも、時々笑い声を立て

ている。高木は煙草を吸いながら一段高くなった歩道に腰掛

け、周囲を塞ぐ山々を目を細めて眺めていた。ぼくが脇を通

ると、独り言ともつかない調子で呟いた。

「温泉にでも浸かってのんびり仕事ができると思ったのに。

なんだか気の滅入るような所だなあ」

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「遊びに来たんじゃないんだから、仕方ないさ。風呂ぐらい

ならいくらでも入れるよ」と半分は自分に言い聞かせるよう

にぼくはいった。「まあ、その内にな」

 投宿する旅館の位置を確かめると、皆を促し、ぼくたちは

荷物を肩に歩き始めた。広場を出て、静まりかえった通りを

横切り、単なる家の隙間かとも思えるような路地に入ると、

その先に細い階段がある。狭い石段を上り、それに続く小道

を辿る。やがて道の奥に古風ではあるが、安っぽい門構えの

建物が現れ「流水館」の看板が見えた。この建物にも見限ら

れて諦め顔の風情が漂っている。建物は傷んだままだし、門

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から玄関までの敷石の間からは雑草が伸びていた。

 迎えに出た老人は無愛想というよりも、ダム工事に関係す

る人間を快く思っていないようだった。この宿で働いている

者は、近所の主婦とおぼしき仲居が一人いるだけ。客の方は

明らかに我々五人だけだった。奥行きのある建物だったが、

廊下の奥は死んだように静まり返っている。老人はぼくたち

を二階の殺風景な部屋に案内しながら、ぼそぼそ喋った。

「ご覧の通り、客が来るのは久しぶりでね。半分、廃業して

いるようなもんだから、宿屋らしいもてなしは期待しないで

くださいよ」老人は皮肉に笑みを浮かべて、ぼくたちを見た。

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「まあ、今日は疲れたろうから、ゆっくり休みなさい」

 宿の主人が部屋を出て行くと、ぼくたちは溜め息をついて、

色の変わった畳の上に体を投げ出した。

 夕食時になると階下に呼ばれた。食事は別の部屋で取るこ

とになるらしい。食事を済ませてしまえば他にすることもな

く、ぼくたちはビールをたらふく飲んで時間を潰した。アル

コールさえ入ってしまえば、ぼくたちはただの「暢気で愉快

な若者たち」だった。他愛ない話をして笑い、仲間をからか

い、都会に残してきた自分の恋人や、都会に残してきた自分

とは縁のない女の子の話しをして騒いだ。

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 ぼくもすっかり酔っ払い、尿意を催してきた所で席を立っ

た。そして、部屋に戻る途中、気の向くまま、ふらふらと外

に出た。宿の前の小道は、すぐ目の前に見える黒々とした山

裾に向かって消えている。周囲に用水路のようなものがある

らしい。軽やかな水音が聞こえる。丈高く伸びた草の間に時

々青白い光が見え隠れする。ホタルか。青白い光はふらふら

空中をさ迷うかと思うと、ふと消え失せる。そんな光の舞い

を眺めていると、不意に寂しさが身に迫ってきた。静かだっ

た。耳に聞こえる音は、近くに隠れた細い水の流れ、風に乗

って運ばれてくる仲間たちの笑い声、哀しげな虫の声。いや、

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それだけではなかった。神経をかき乱すかのようなあの音、

広場の向こう側、大地を深く抉りながら唸りを上げる河の

音が総てを震わせていた。

 今でも、意識の奥深くに語り掛けるような、あの水音を忘

れることができない。ぼくが谷間で過ごした思い出の中から、

あの邪悪な音は決して消えることはなかった。明滅するホタ

ルの光を見詰め、意識の外で河の流れる音を聞いていたあの

時、自分の中にも狂った感情が芽生えていたのかもしれない。

取り戻すことのできないものを取り戻そうとする衝動、時間

の流れに敢えて逆らおうとする衝動が。何が理性で、何が狂

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気か分からなくなってしまった今、ぼくは改めてそう思う。