「人魚の嘆き」挿画考〜挿画家の謎



初出紙『日本古書通信』(2000年3月号)に少々補筆改訂。
 

 谷崎潤一郎大正中期の力作「人魚の嘆き」(『中央公論』大6・1)には、初出誌にはなかったにもかかわらず、後に2種類の挿画がつけられてそれぞれ上梓されている。それは、春陽堂から出版された短篇集『人魚の嘆き』(大6・3)と『人魚の嘆き 魔術師』(大8・8)である。「人魚の嘆き」自体は、春陽堂「ヴェストポケット傑作叢書」の『金色の死 他三篇』(大11・)等にもその後収録され、大正6年版と同一内容の新装版『人魚の嘆き』(春陽堂、昭2・5)にも収録はされているが、挿画は付けられなかった。大正8年の『人魚の嘆き 魔術師』に関しては、以前拙論(「挿画本『人魚の嘆き 魔術師』考」、『藝文攷』4)で論じたが、大正6年版『人魚の嘆き』については、稿者も未入手で、不明な点が多くその挿画についてつまびらかに出来なかった。その後若干の事実が判明したので少し見てゆきたい。

大正6年版「人魚の嘆き」挿画

 大正6年版『人魚の嘆き』挿画は、書物のどこにも銘記されてはいないが、従来本間国雄によるものと言われてきた。それは、浩瀚な橘弘一郎編『谷崎潤一郎先生著書総目録』第壱巻(ギャラリー吾八、昭39)という現在谷崎本に関する最も纏まった書誌に「本間国雄画」(20頁)と掲載されているからでもあろう。また、この大正6年版『人魚の嘆き』が挿画のために発売禁止の憂き目にあい、どうやら挿画削除によって発売が継続されたらしいということは、前回の拙論で指摘したように齋藤昌三『現代筆禍文獻大年表』(粹古堂書店、昭7)207頁に記してある通りだが、同じく齋藤の『近代文藝筆禍史』(崇文堂、大13)には「人魚の歎き/著者が著者だから直ちに題材や描写の上の欠点と、合点されるのも無理はないが、この書の禁止はおそらく内容に関係なく、本間国雄の挿画の異形なのが問題となつたものであらう。」(81頁)とされている。

 ということは、既に大正の頃からこの大正6年版の挿画は本間国雄画とされていたことがわかる。しかしながら、没後版「谷崎潤一郎全集」の『月報4』「第四巻後記」には「名越国三郎」による挿画と記されており、以前から疑問であった。

 

名越国三郎挿画「人魚の嘆き」

 

 本間国雄に1冊の画文集があることは以前より知られている。『東京の印象』(南北社、大3・1)である(その後現代教養文庫で復刻)。また、管見によると、本間国雄は明治末年から大正初年にかけて『ホトトギス』『文章世界』の表紙画や口絵を担当している。しかし実際にその画に接してみると、これらの太い線による木版的な画調と、大正6年版『人魚の嘆き』挿画の、細い、どこかしらビアズレイを思わせる画調は、画家において画調が変化してゆくことはままあることではあるとしても、にわかに同一人物の筆になるものとは信じられないくらいの間隔があるように見受けられた。その疑問について稿者は前回の拙論で少し触れたのだが、その後、『日本古書通信』(平11・11)に掲載された川島幸希「稀覯本の参考古書価」によって、大正6年版『人魚の嘆き』谷崎が本間に装幀依頼をした未発表書簡の存在を知らされたのであった。

  

(左)本間国雄「あけぎり」(『文章世界』大1・12)  (右)『文章世界』大2・11の本間国雄による表紙

 後の「装幀漫談」(昭8)にも窺われるように、自著の装幀にまで細かい神経を行き渡らせていた谷崎は、この頃から自著の装幀・挿画家に細かい指示を出していたようだ。例えば、関川左木夫「小村雪岱・ビアズレイ・谷崎潤一郎」(『版画芸術』昭54・1)に写真入りで紹介されているが、大正8年の『近代情痴集/附り異国綺譚』(新潮社)の装幀挿画を担当した小村雪岱に宛てて、谷崎は細かい指示を記した書簡を送っている。稿者は無論眼にはしていないが、多分川島氏が触れておられる本間宛書簡も同様なものかと思われる。

 しかし、いざ斯様な書簡の存在を知らされてもなお、依然として大正6年版『人魚の嘆き』挿画を本間国雄が担当したという事には疑問が残る。その根拠をここに並べてみよう。

 

@ 大正6年版『人魚の嘆き』の挿画が、名越国三郎唯一の画集『初夏の夢』(洛陽堂、大5)所収の絵と比較したとき、顔や手や髪の毛などという細かいディテールの表現に類似点がみられること。

名越国三郎「梅雨晴の日」(『初夏の夢』所収)

  

(左)大正6年版「人魚の嘆き」部分拡大   (右)名越国三郎「梅雨晴の日」部分拡大

 

A 「人魚の嘆き」の挿画のすみに記されている画家のサインが、名越と同一のものであること。

大正6年版「人魚の嘆き」左下にある画家サイン

「梅雨晴の日」右上にある名越国三郎のサイン

 

B 『人魚の嘆き』発売当時に、『新小説』(大6・5)に掲載された春陽堂の新刊広告で、本間ではなく「名越氏挿画」とされていること。翌月の同誌には「人魚の嘆き」の挿画を載せ、「名越国太郎氏挿画」とした大々的な広告が掲載されているのである(『新小説』大正6年8月号での再版の広告も同様)。なお、何故に国三郎が国太郎とされているのかは不明。

 

(左)『新小説』(大6・5)掲載の広告  (右)『新小説』(大6・6)掲載の挿画入り広告

 

 これらの事実を念頭に置くならば、大正6年版『人魚の嘆き』の挿画は名越国三郎によるものと見て、まず間違いないだろう。

 とは言いながら、こうなると川島氏が知人の所有になるものとして紹介された、くだんの谷崎書簡はどうなるのか、という疑問が新たに生じる。結論に入る前に、ここで、沈黙に包まれた画家、本間国雄(?-1973)と名越国三郎(1885-1957)について少し触れなければなるまい。

 

本間国雄と名越国三郎

 

 京都市立美術工芸学校卒業後、大阪毎日新聞社に入社した名越国三郎は、『大阪毎日新聞日曜附録』に、学芸部部員として挿画を担当、大正11年4月に「日曜附録」が『サンデー毎日』として創刊されると同編集スタッフとなり、例えば同誌連載の江戸川乱歩「湖畔亭殺人事件」や小鹿進作「双龍」、北村小松「提琴弾きのシャール」等の挿画を手がけている。編集部員として記事も執筆しているが、『苦楽』『演芸画報』等他の雑誌の挿画や、主に『サンデー毎日』発刊当時同編集部部長であった薄田淳介(泣菫)の著書である『お伽噺とお伽唄』(冨山房、大6)、『泣菫詩集』(大阪毎日新聞社、大14)、『泣菫文集』(前同、大15)、『艸木蟲魚』(創元社、昭4)、『樹下石上』(創元社、昭6)等の装幀や吉井勇『芝居歌集鸚鵡石』(玄文社、大7)等の挿画をも手がけている。画集としては前出『初夏の夢』がある(なお、同書の一部が生田耕作編『奢霸都』創刊号に復刻掲載されていることを記しておく)。

 画集もあり、挿画も多数に及んでいるためか、名越の画は『名作挿絵全集』(平凡社、昭55)でも紹介されているくらいなのだが、本間国雄の場合は、私見によると、森口多里『美術八十年史』(美術出版社、昭29)と、紅野敏郎『本の散歩 文学史の森』(冬樹社、昭59)等で少し触れられているのみのようで、その画業は殆ど紹介されたことはなかったと言ってよい。

 本間国雄に関しては、前出の画業の他に、『ホトトギス』掲載の挿画を集めて一本にした高山虚子編『さしゑ』(光華堂、明44)に、橋口五葉や小川芋銭等の作品と共に本間の作品が4枚収録されており、明治45年秋に齋藤與里、岸田劉生、萬鉄五郎、木村荘八等と「ヒュウザン会」創立メンバーとして参加、ヒュウザン会第1回展覧会(明治45年10月15日〜11月3日於読売新聞社3階)に「せんだく」を出品していたことがわかっていた。当初稿者は、本間国雄には画集はなく、これ以上の情報はないと思っていた。が、本間国生名義での画集が2冊も存在していたのである。それは現在早稲田大学図書館所蔵になる『朝鮮画観』(芸艸堂、昭16)、『満州画観』(私版、昭19)である。『朝鮮画観』は、題簽・題字徳富蘇峰、序文坂崎坦、跋文本間久雄。そして『満州画観』の方は、題字張景恵、題簽沈瑞麟、跋文添田達峰、そして『朝鮮画観』と同様に第二次大戦末期の発行にもかかわらず豪華な大判の和綴じの画集で帙入りという体裁である。

 さて、この2冊に寄せられた序文及び跋文によって、本間国雄についていくばくかの事実が明らかになった。まず、本間国雄は、早大教授でありワイルド研究で名高かった本間久雄の実弟であったということ。明治末年に白馬会研究所に洋画を学び、明治43年5月の第13回白馬会展覧会に「北国の茶屋」を出品していること。大正初年に岡本一平、北沢楽天等と共に東京漫画社をおこし雑誌『漫画』主宰し、その後『やまと新聞』『東京日日新聞』で美術記者として活躍したということ。そして昭和16年春に朝鮮半島の風景画を50余点出品した第1回個展を、昭和18年には満州の風景画を20点出品した第2回個展を開催していたという事実である。それだけではない、先述した本間宛書簡があるにもかかわらず、何故に挿画が名越になったのかという理由を推察させるある事実が明らかになったのである。

 

名越の挿画と水島爾保布

 

 『朝鮮画観』の坂崎坦「序文」には、「元来君は白馬会出身の洋画家であつて、当時世人の視聴を集めた新興美術団体フユーザン会を組織した新知識であるから、その作品はいふ迄もなく、右の『東京の印象』に於ても、普通画人の企及し得ぬ物の見方と、特異の運筆とをもつてゐるのは首肯出来る。しかしこの書の成功が君を駆つて挿絵に、次で漫画に専念せしめ、遂に本来の洋画と絶縁するに至らしめたのは果してよい事であつたらうか。/それから二十五年。杳として消息を断つてゐた同君は、この間筆一管をもつて内地を歴遊し、更に台湾朝鮮に居を移し、只管日本画の研究に余念なかつたといふ事である。そして客冬又、飄然として上京」したとある(頁数刻印なし)。この文章の末尾には「昭和十六年二月」と記されているので、本間は昭和15年末に帰郷したことになる。それから25年前と言うと、大正5年に忽然と東京を去ったということになる。

 となると、川島氏が触れられた書簡を実際に見た訳でもなく、まして日付もわからないので、あくまで憶測の域を出ないが、次のような仮説が立てられるだろう。谷崎が「人魚の嘆き」を執筆していたのは大正5年12月だが、既に大正5年中に潤一郎には短篇集上梓の計画があり、装幀挿画を本間国雄に依頼、ところが直前になって本間が突然旅だってしまったために、急遽谷崎側が名越国三郎にその矛先を向けた、という推測である。もしこの推測の通りならば、川島氏の言う書簡が存在しているにもかかわらず、大正6年版『人魚の嘆き』の挿画がどう見ても名越国三郎によるものであるという矛盾は解消されるだろう。

 また、今回の調査によって、もうひとつ述べなければならないことが判明した。稿者は以前、拙論「挿画本『人魚の嘆き 魔術師』考」に於いて、爾保布が『人魚の嘆き 魔術師』のために描いたビアズレイの影響をありありと窺わせるその挿画が、はしなくも当時の水島の代表作となっていたようであるという意味のことを書いた。谷崎からの人魚という素材の提供を受けて、爾保布が奔放にその才能を発揮したと稿者は考えていたのだが、実のところ、既に水島は人魚というモティーフを使った絵を明治末年に発表していたのである。それは『文章世界』大正4年7月号掲載の「人魚」である(不思議なことに水島によるこの人魚は、大正6年版『人魚の嘆き』表紙画そっくりのポーズをしている)。

水島爾保布「人魚」(『文章世界』大4・7)

 この絵の制作年は同誌に記されていないが、明治41年東京美術学校日本画科卒業後、明治45年に川路柳虹等と共に「行樹社」を結成した爾保布が、その第1回展覧会(明治45年11月1〜7日於赤坂三会堂)に「人魚」という同名作品を出品していたことは『日本美術年鑑(明治四十五年=大正元年)』第三巻(画報社、大2)54頁によって確認出来る。本間国雄もこの時期の『文章世界』に表紙画や口絵、挿画を提供していたことは先述した。谷崎が、何故に本間国雄に挿画の依頼をしたか、その関係は不明ではあるが、依頼する前にその仕事を見ていた筈である。ここで少し想像をたくましゅうするならば、潤一郎は本間の仕事が掲載されている『文章世界』を読んでいたおそらくその時に、裸体の上半身をあらわにしてそのたくましい腕を遊ばせているという水島の「人魚」を見出したのではあるまいか、……と考えたくなるのだが、些か強引に過ぎるだろうか。爾保布の息子今日泊亜蘭氏による回想談「父、爾保布を語る」(『幻想文学』昭63・4)によると、大正8年にその挿画本を上梓するにあたって、谷崎は気に入っていた水島に挿画を直接依頼したという。この人魚の絵と「人魚の嘆き」本文中に引き合いに出されているビアズレイが、その後の小説「肉塊」(大12)等にも通じてゆく、谷崎に於ける人魚モティーフの源泉であったとするならば、それはそれで面白い事なのであるが、それでは、何故大正6年版に水島を使わなかったのかという問題が出てしまう。

 谷崎のうちに「人魚の嘆き」の構想が何時浮かんだか、そしてこの作品にいつ頃から着手したかは杳としてわからぬし、装幀依頼の書簡の日付もわからぬのでは、何とも言えないのだが、もしも潤一郎が「人魚の嘆き」の構想以前に、最近の短篇を一本にしようとしてあらかじめ本間に装幀挿画を依頼していた、とするならば、水島の「人魚」をも目にしていたであろう谷崎は、大正6年版『人魚の嘆き』装幀挿画家として爾保布を候補に挙げ、いつしか己が作品の挿画を描かせようとの心づもりを持っていたのかもしれない。

 さもあらばあれ、「人魚の嘆き」の挿画家について若干述べてきた訳であるが、文学のみならず、絵画、映画にまで旺盛に関心を持っており、作家として「単行本の形にして出した時に始めてほんたうの自分のもの、真に「創作」が出来上がつたと云ふ気がする」(「装幀漫談」昭8)と述べる潤一郎を考えるとき、たとえ些末ではあっても、これらのことは作家研究上無視することは出来ないだろうと思われるのだが、如何なものであろうか。

 

付言・本文中の引用において、旧字は新字に改めた。


参考・引用文献

 

谷崎潤一郎『人魚の嘆き』(春陽堂、大6)

     『人魚の嘆き 魔術師』(春陽堂、大8)

没後版『谷崎潤一郎全集』(中央公論社)


『日本美術年鑑(明治四十五年=大正元年)』第三巻(畫報社、大正2年)

本間国雄『東京の印象』(南北社、大3)

名越国三郎『初夏の夢』(洛陽堂、大5)

水島爾保布『愚談』(厚生閣、大12)

     『痴語』(金尾文淵堂、大13)

     『新東京繁昌附大阪繁昌記』(日本評論社 大13)

齋藤昌三『近代文藝筆禍史』(崇文堂、大13)

    『現代筆禍文獻大年表』(粹古堂書店、昭7)

本間国雄『朝鮮画観』(芸艸堂、昭16)

    『満州画観』(私版、大雅堂印刷、昭19)

森口多里『美術八十年史』(美術出版社、昭和29)

橘弘一郎編『谷崎潤一郎先生著書總目録』全三巻(ギャラリー吾八、昭39)

野村尚吾『週刊誌五十年』(毎日新聞社、昭和48)

復刻版『禁止單行本目録』(湖北社、昭52)

紅野敏郎『本の散歩 文学史の森』(冬樹社、昭54)

関川左木夫『ビアズレイの芸術と系譜(改訂版)』(東出版、昭55)

下中邦彦編『名作挿絵全集』第3巻(平凡社、昭55)

関川左木夫監・原美術館編『ビアズレイと日本の装幀画家たち』(阿部出版、昭58)

肥田皓三「大正の大阪文学」(季刊『銀花』40号、昭59・冬)

生田耕作編『奢霸都』創刊号(奢霸都館、昭60)

匠秀夫『日本の近代美術と文学』(沖積社、昭62)

細野正信『竹久夢二と抒情画家たち』(講談社、昭62)

今日泊亜蘭「父、爾保布を語る」(『幻想文学』昭63・4)

紅野敏郎『日本近代文学誌』(早大出版部、昭63)

日本児童文学学会編『児童文学事典』(東京書籍、昭63)

本間国雄『東京の印象』(社会思想社現代教養文庫、平4)

『新小説』(大6刊行分)

『文章世界』(明45〜大4刊行分)

拙稿「挿画本『人魚の嘆き 魔術師』考」(『藝文攷』平11・1)

川島幸希「稀覯本の参考古書価」(『日本古書通信』平11・11)


1999.12.18

(C)Takeshi Yamanaka,1999

無断引用ヲ禁ズ


since 2000.3.26