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『人魚の嘆き 魔術師』挿画

水島爾保布/画

 

水島爾保布(1884-1958)

東京下谷根岸生まれ。爾保布(におう)というのは本名で、『難訓辞典』の著者である父水島慎次郎(鳶魚斎)の命名。明治41年東京美術学校日本画科卒業、大正元年、川路誠(柳虹、大正2年卒業)・小泉勝爾(明治40年卒業)・小林源太郎(明治44年卒業)・広島晃甫らと12名で「新樹社」を結成。大正元年11月1〜7日、赤坂三会堂にて第1回展覧会を開催、18人70余点が出品される。水島は「暴王の心臓」「手品」を出品。第2回展は大正2年11月、虎の門議員会館で 28名の69点を展観、爾保布は「心中未遂」「夜曲」を出品。第3回展は大正3年4月芝公園旧勧業場で、大正5年赤坂三会堂での第4回展で幕を閉じる。爾保布は大正2年、長谷川如是閑に招かれて大阪朝日新聞に挿絵を書く。「水島はビアズリの感化を思わせる妖味の空想を弄し、例えば『暴王の心臓』は縛されて地上に横たえられた女や馬上に相闘う二人の男を描き、後年のシュルレアリスムに似たものがあり、第一回展の『手品』、第二回展の『心中未遂』、『夜曲』等は怪奇の幻影を享楽していた」(森口多里『美術八十年史』美術出版社、昭和29年、218頁)。以前から美術批評や随筆を発表していたが、大正8年の谷崎潤一郎『人魚の嘆き 魔術師』(春陽堂)の挿画で有名になり、大正9年には、第2回帝展に「阿修羅のおどり」を出品、入選している。また、大正15年第5回帝展でも「弥次喜多」で入選した。尚、別冊太陽『乱歩の時代』(平凡社、平成7年)所収の図版キャプションでは(9頁)、この画と挿画がエロティックであるために同書が発禁になったとあるが、これは誤りで、挿画のために発禁になったのは大正6年に春陽堂から発売された短篇集『人魚の嘆き』であり、同書の挿画は水島の画ではない。この辺の事情は拙論「挿画本『人魚の嘆き 魔術師』』の位置」(『藝文攷』4号)に詳述したので、興味のある方は参照して頂きたい。因みに、爾保布の長男は、日本SF界の長老、今日泊亜蘭であることを付け加えておく。

書誌

    

『東海道五十三次附瀬戸内海』         金尾文淵堂              大正 9年

『愚談』                   厚生閣                大正12年

『痴語』                   金尾文淵堂              大正13年(左)

『新東京繁昌記附大阪繁昌記』(発売禁止改訂版)日本評論社              大正13年(中)

『見物左衛門』(現代ユウモア全集第十五巻)  現代ユウモア全集刊行会(発売小学館) 昭和 4年(右)

装幀としては、鈴木三重吉編『湖水の女』(春陽堂、大正5年)、正岡いるる『東京夜曲 影繪は踊る』序文黒石序歌勇(新作社、大正12年)、正岡容『圓太郎馬車』(三杏書院、昭和16年)があり、この他には、『文章世界』などに挿画を、『演藝畫報』表紙画などの作品がある。