毎年10月28日 目黒不動(龍泉寺)にて
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甘藷まつりについて
戦前は本来10月12日のご命日に農林省の農林大臣始め甘藷問屋や甘諸研究家や地元篤信家と目黒不動尊の方々で法要が営まれておりました。
終戦後は政教分離の余波で農林省は参加せず、寺と西五反田にあった青果市場の荏原青果組合傘下の目黒・碑文谷支部役員と青木昆陽遺徳顕彰会の学者の方々で甘藷まつりが始まり、後に近隣町会役員、商店会役員により吉田貫主の元で何とか甘藷まつりを盛り上げようとお声がかかり、門前の有志が相集い「甘藷まつり実行委員会」を結成し寺より甘諸コーナーを頂いて、生産地の鹿児島県、徳島県、千葉県、茨城県の農林部会を通して甘藷製品のピーアールをして甘藷に感謝する企画展が始まりました。
幸い農林水産省のガット・ウルガイランドの一環として澱粉の生産奨励と販売促進の補助金により当時「いも類振興会」の専務理事の山崎専務とのご縁により、私が日本そば店を経営しており(日本原そば協会)の専務理事として兼務しておりました、山崎氏にお願いして、全国の甘諸業者にお声をお掛けして参加して頂く様になりました。
特に鹿児島県の東京事務所の「遊楽館」、徳島県東京物産観光センター、千葉県栗源町役場の振興課の石橋氏、茨城県の干しいも問屋、東京いも卸問屋の川小商店の斉藤社長さまのご指導で川越サツマイモ資料館のノベーリー・ドウエル氏のいもに対する情熱に後押しされ、毎年10月28日に甘藷まつりが新聞やTVで放映され沢山のお参りとご来場者でコーナーはごったがえす盛況になりました。
又いもの原料による「いも焼酎」の試飲や販売に霧島酒造がいち早く協力していただき、薩摩酒造「白波」小鹿酒造り・鹿」知覧晒造「武家屋敷」本坊酒造、尾込商店「さつま寿」吹上焼酎「吹上」等を試飲として寄贈して頂き参拝者に飲んで頂いて大変喜ばれております。
甘藷まつり実行委員会としては千葉の栗源町の「いもまつり」や川越いも業者の見学会を行い、又茨城県東海村の原子力事故に当たっても、東海村村長村上氏の風潮被害に対し解消のため廿諸まつりに参加を頂き少しでも被害解消に協力致しました。
平成10年に青木昆陽生誕300年を迎え、「青木昆陽生誕300年祭実行委員会」 を興し、「いも類振興会」 のご協力により農林水産省、目黒区教育委員会の後援を頂き、区民センターで盛大に「さつまいもフェスタ98inめぐろ」を開催しました。
平成26年10月28日
甘藷まつりスナップ
平成24年10月28日
甘藷まつりスナップ
甘藷の日本への伝りは17世紀初期に琉球、平戸、薩摩ともたらされ近畿地方でも作られる様になった、草保17年(1732)大飢餓が起こり、さつまし・もの普及している地域では餓死者を出さない現象を見、幕府はさつまいもの効用に注目するようになった。 昆陽35才の時、ハ丁堀与力加藤枝直の上申により町奉行大岡忠相の知遇を得て、救荒食料として甘藷の効用を説いた「蕃藷考」を著し、草保18年将軍徳川吉宗に呈上した。 幕府は飢餓後の食料対策として必死であったため、時を得ていたため救荒書として高く評価され、「薩摩芋功能書並に作り様の伝」を仮名交じり文に易しく書き改め、甘藷の普及効果は高まり諸国に広まっていった。 経世済民のため学者として社会使命を果たし、甘諸先生、芋神様と称される謂われです。 |
第二次世界大戦と言われた、先の大戦時に食料増産の為に農林省は品質改良をして出来るだけ大量に大型サツマイモの運動を展開し農林一号、茨城一号等大型のサツマイモの生産に励みました。 又重用国策作物として燃料用アルコール原料として増産奨励され、石油資源の少ない我が国のガソリンを節約する為に、いもアルコールを混入して燃料を補い、質より量の沖縄100号、護国藷(高系4号)などが増産されました。 焼け跡の荒れ地でも作れる食料として各家の庭に藷畑が出来、またまた「お助けいも」として当時の食糧難を喰い偲んだものです。今の60代70代の人はいもに大変世話になっており、当時を思い出すのでいもは嫌いになったと言う人もおります。 |