2005年TUBE野外ツアーに参加しました! *詳細*




音楽との出会い
 はじめて手にした楽器はピックギターで、中学2年の正月、3200円で購入。 教則本は買わずに、アメリカンポップスの曲集でいきなりコードの押さえ方から覚え始める。 なかなか指が動いてくれず、右手で左指を動かしてやっとコードの音が出るようになる。
 この頃の音楽番組というと、ラジオでは文化放送の「ユア・ヒットパレード」テレビではNHKの 夢で逢いましょう」民放では何と言っても「ザ・ヒットパレード」で特に伊藤素道とリリオ・リズムエアーズが好きで、 毎週欠かさず見、聴きしていた時代です。もちろんFENも聞きました。 その反面、浪曲天狗道場などという番組を何故か聴いておりました。



高校時代バンド活動!
 高校2年(東京オリンピックが開催された年)ハワイアンバンドを結成。スティールギターを担当、 メンバーは僕以外は1年生でした。高校は都立化学工業高等学校、工業化学科です。
 学校のバンドだけではもの足りず、「ミュージック・ライフ」という音楽雑誌でメンバーを募集していた 大橋英彦さんと松原隆さんに連絡して両方のバンドに参加することになります。
 松原隆さんは、東京エコーズというハワイアンバンドのリーダーで当時上野のキャバレーに 出演されていて、僕は毎夜、このバンドでアルバイトすることになります。 ここでは「KEY」のピックギターでサイドギターとヴォーカルを担当させて頂きましたが、 GibsonのL-7が欲しくてたまらなかった頃です。
 松原隆さんのバンドを離れてから、35年近くなりますが、2年前のある日、先生から電話が有りました。 「ヒロか?」という声ですぐわかりました。先生は宮崎市内でハワイアンスナックを経営されているという 事でしたが、現在は連絡が取れません。どなたか御存知の方は御一報下さい。

 テレビではビートポップス、ソウルトレイン等が放映され、一時はあこがれましたが、 やはりハワイアンからは離れられません。
 一方、ラジオではTBSでコカコーラボトラーズ提供「大学対抗バンド合戦」というのがあって、 僕はこの番組に出たくて、一時予備校通いをはじめましたが、すぐ挫折、僕の能力ではやはり‘東大’は無理でした。
 この番組は色々な音楽ジャンルの対抗戦で、司会は小島正雄さんでしたが途中から大橋巨泉さんにチェンジしました。 ジャズピアノの八城一夫さんをはじめ、当時、日本を代表するプレーヤーの方々が審査をされていました。 各大学のバンドを掲げたらキリが有りません。とにかくうまかった。格好良かった。 今思えば不思議ですが、この番組にはロックバンドの出演は非常に少なかったという記憶が有ります。
 ハワイアンバンドといえば、銀座「タクト」ですが、このステージの出演も夢でしたが、いずれ出演する事になります。 しかし残念なのは、ハワイアンバンドではなかった事です。



レコードデビュー
 高校を卒業して佐藤製薬・試験課に勤務するころは、エレキギターブームでテレビでは勝ち抜きエレキ合戦等が放映されていました。 佐藤製薬もこの番組のスポンサーになりましたが、僕はハワイアンバンドのアルバイトを続けておりました。 この頃はチェンジャーのスティールギターを演奏される、戸山肇さんのバンドでやはりサイドギターとヴォーカルを担当しておりましたが、 借金して中古のGibson Super 400Cを買ってしまいました。
 19才の年の暮れ、所属していたバンド(リーダーは山田晴一さんでした)と共にグアムへ行きます。 もちろん佐藤製薬は退社しました。同行したフラダンスチームはプアローゼスというグループで、リーダーは尾崎さんという方でした。

東京へ戻ると、コロムビアレコードの東元さんというディレクターから連絡が有り、グループを作るので参加しないか? ということでしたので、一応の段取りを終えて参加する事になります。

 この頃、巷ではグループサウンズ、一方ではムード歌謡コーラスバンドが全盛で、僕が参加したバンドは平均年令20才の 歌謡コーラスバンドでした。(一番やりたかったのはR&B、そしてグループサウンズです)
 当時、歌謡コーラスバンドは平均年令が30才位で、ディレクターは若さでグループサウンズに対抗させようとしたのだと 思います。『J・シャングリラ』という名でデビュー曲は市川昭介先生の曲で「あやまち」というタイトルでした。 もしかしたら、これが僕の人生のあやまちだったのかも知れません。




最近こんな写真も出てきました!

 そんな事、言ったら色々と面倒を見て下さった方々に申し訳ありません。中でも、デビュー以前から御心配を頂いた島方さん (5年前他界)や、その後を引き続き、解散するまでマネージャーを担当して頂いた菅原潤一氏にはメンバー一同、 特にお世話になりました。
 菅原さんは現在「チューブ」、「佳苗」、「貴水博之」等が所属するプロダクション(株)ぐあんばーるの代表取締役をされておりますが、 当時から、曲のアレンジ、詞の内容、ステージの構成等、僕達以上にいつも考えていて、又、ヒマさえあれば読書しているような人で、 外見からは想像もつきません。色々なエピソードも脳裏に残っておりますがここでは申し上げられません。 とにかく元気な男ですし、僕が尊敬する一人でもあります。ぐあんばーるの社員の皆様、気むずかしい社長では有りますが、 宜しくお願い致します。・・・大きなお世話でした。
 わずかな期間ですが、佳苗さんにはベース、貴水博之さんにはギター等のレッスンをしましたが、 私の経験で皆様のお役に立てたかどうかはわかりません。今後も「ぐあんばーる」の皆様を微力ですが、ハゲながら応援致します。 息長く頑張って下さい。



デビュー当時の エピ騒動
 レコードは出したもののそう簡単に右から左へ売れるものでは有りません。ましてやニューフェイスです。 毎日、レコード店へのあいさつまわり、地方でのキャンペーン、最初は北海道でした。
 そんなある日、僕はレコード用宣伝チラシを母校(都立化学工業高校)に早朝忍びこみ、全校の机の中に置いてきました。 それも無断にです。誰の許可も取らずに。。。
その後、何年もたって後輩から聞かされました。職員会議で大騒ぎになっていたそうです。 僕達41期B組の担任であった鈴木善孝先生が尻ぬぐいをしてくれたと聞いて目頭が熱くなりました。 数年前、30年ぶりのクラス会での再会で、そのお詫びとお礼を言って何となく胸のモヤモヤは晴れました。 先生の髪は幾分白くなったものの、当時と余りかわりなく大変元気そうで安心しました。
 年賀状も出さずに申し訳有りません。先生には是非このホームページを見て頂きたいと思います。

 『J・シャングリラ』もシングル4枚を残し解散し、幾つかのハワイアンバンドやジャズバンドを点々としている頃、 兼ねてから僕のあこがれのグループの一つであった(もう一つは「ズーニーブー」でした)「パープルシャドウズ」 からの誘いが有りました。同じライブハウスで彼等のステージは見ておりました。
 ハワイで「ドン・ホー」のバックバンドをやっていたアリーズや、インヴィテイションズのコピー曲を演奏するグループは、 僕にはたまらない魅力でした。そのグループからの誘いを何で断わる必要が有りましょう。二つ返事で了解しました。 (直前まで所属していましたバンドリーダーの、元ブルーハワイアンズの恩田さんには非常に感謝しております。) パープルシャドウズも、僕が入ってから約2年で一旦解散します。というわけで、高校在学中より夢見た楽器修理専門店、 開業への勉強がこれから始まります。
 ウクレレスクールを始めるきっかけは、前述しました大橋英彦氏(現、英比個)の勧めによるもので、僕は大変感謝しております。
 一応、弾ける楽器はベース、ギター、ウクレレです。フトンは毎日ひいています。 1997年9月開校です。




音楽以外のわたし
好きなものをあげてみました!

アユ釣りとへら鮒釣りが趣味です。

猫が大好きです。今7匹飼っております。 野良猫防止に日々務めております。

お神輿と聞いたら血が騒ぎます!!!