From the Life of Canopus

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(The English descritions of this page do not necessarily match the Japanese descriptions.)

At Candi Lolo Jongrang,
An old Hindu temple at Prambanan, near Yogyakarta, Indonesia, in 1991

New in the Life of Canopus!

The Birth and Boyhood Days

Birthplace: Several years ago in a highschool class reunion in Tokyo, someone shouted, "Those who were born in Nakano Union Hospital!" Several people including myself (as Canopus told) raised our hands. I do not remember who my hospital mates were, but it was a most interesting experience! This hospital is located within 5 minutes' walk from the south exit of Nakano Station on the JR Chuo Line, across the street from the Nakano Ward Office, Tokyo. [1/28/96]

Reference: Shinshu: See the Japanese Part below.

The High School and College Days

The High School Days: See the Japanese Part below.

The College Days: See the Japanese Part below. ICU Alumni Home Page ['97.5.14]

At Work in Japan and U.S.A.

Pittsburgh: Went to study at the Graduate School of Industrial Administration (G.S.I.A.), recently renamed as the Tepper School of Business, Carnegie-Mellon University, Pittsburgh, Pennsylvania, USA, when Willie Stargell was still playing for the "Pittsburgh Pirates." Not much attention was paid at that time for this National League professional baseball team, I felt. The Three-River Stadium was not yet there, so the team played its home games at the old Forbes Field, near University of Pittsburgh's Library, five minutes' walk or drive, respectively, from Mudge House or Forbes Terrace where I lived.

We would listen to KDKA or other local radio stations, and, after the 7th inning, enter the ball park, free of charge. This was the pastime that only the Japanese and American students knew, of course, not the students from Europe or India (who never understood baseball at all)! On April 20-22, 1996, Canopus was back at CMU for the 25th reunion of the G.S.I.A. Class of '71. [6/2/96]

Dogwood: During the early '70s, lived in Raleigh (see Tri-Cities Information for Japanese Residents), North Carolina, USA, a town decorated by white, red or pink dogwood flowers in April. Dogwood trees grow in the eastern board of U.S. and come into bloom in Georgia in March, up the Appalachian Mountains later, and in New York and Massachusetts in May. As the "Flowering Map of Cherries" is announced in Japan, the "Flowering Map of Dogwoods" is placed in the local newspapers in the eastern board, such as the New York Times. [2/19/96]

In Washington, D.C., the cherry trees come into bloom in early April around the Tidal Basin near Thomas Jefferson Memorial. They are well known as the City of Tokyo's gift to the U.S. capital, which was celebrated by a ceremony in 1912 with Mrs. W. H. Taft's attendance. but little known is a fact that U.S. later in 1915-17 donated dogwood trees to the City of Tokyo, in a mutual exchange of gifts. Unfortunately, the dogwoods in Tokyo did not survive the Word War II devastation or the city's later air polution during the post-war economic boom. You can see a public notice about this Japan-U.S. gift exchange of flower at Constitution Memorial Park, in front of the Diet building, . [2/19/96] In 1997, Yoshihiko Mine found, after five years' research, that one original American dogwood tree remains at the Koishikawa Arboretum, Tokyo. ['97.5.5.]

From February, 1997, through March, 1998, I moved to Nagano City (first at Nagano Olympic Project: +81-26-235-7710, fax: -235-7750, then at Shinonoi 026-299-5623, fax: -5644; NAOC 026-225-7775, fax: 225-7790; the Main Press Center; and the Paralympic Village; Celphone: 020-56-44270) in support of the Nagano Olympic Games project. My last assignment there was in the Software Division in Tokyo (03-3808-7223).

In March, 2001, I retired from this computer company for which I had worked for for a long time...

In Taiwan, China, Asia, Oceania and Europe

I have been to Europe three times, and to Australia once. In Asia other than Taiwan and China, I have been to Indonesia (Bali Island) and Malaysia (Cherating Beach).

Kwanhwa Market in Taipei: I, as Canopus told us, went to work in Taipei, Taiwan, in 1990-91, with my family. Kwanhwa Market, Taipei's equivalent of Tokyo's Akihabara, the electronics and computers shopping area, was within 5 minutes' walk from the place I worked for the joint venture with the Taiwan Government's Institute for Information Industry. The computer stores are under the bridge of Sungchiang Rd. that goes over the Taipei-Keelung Railroad, and along Pate Rd. from which you can actually enter Kwanhwa Market. Nearby is the National Taiwan Institute of Technology, whose needs I believe had launched Kwanhwa Market.

From late August, 2001, I moved to Dalian, China, to work for a university for one year, teaching Japanese Conversation and Computer using japanese, and then for Dalian Software Park, inviting Japanese companies to develop software here. More coming:

Japan

Ocasionally, I go back to Japan to stay at my house in Fujisawa City, Kanagawa Prefecture, near Enoshima Is.

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The End of the English Part

カノープスの生涯から

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チャンディー・ロロ・ジョングランで
インドネシアのヨグヤカルタ付近のプランバナンにあるヒンドゥー教寺院遺跡、1991年

カノープスの生涯に関してNew!

生れと少年時代

生れた病院: 数年前、高校の同期会で誰かが「中野組合病院で生れた人、手を挙げて」とさけんだので、5〜6人と共に私も(とカノープスが語った)手を挙げた。こんなことってあるんだ!。もう誰々であったか覚えていないが、面白い経験であった。この病院は現在は、東京・JR中央線中野駅南口から歩いて5分くらいの処、中野区役所の向いにある。

信州: 3才の時から小学校6年生で東京へ戻るまで、信州(長野県)上水内郡中郷村(現在の牟礼村)で少年時代を過ごした。春には、昔上杉謙信のお城があったという小高い丘、城山(じょうやま)で村人が総出でお花見をした。夏は近くの川で水面とヤスを使って魚(主にカジカ)を突いて取ったり、夕方小学校の校庭で孵化直前のセミが小さな穴をあけるのを見つけて掘り出して家へ持って帰り、孵化するのを観察して遊んだりした。秋には学校の生徒総出で村有林に冬用のタキギを採りにいったり、いとこ達と山へキノコ(クリタケ、マツタケ、カンコウ、シメジなど)を採りにいった。

冬は大変雪深いところで、江戸時代に隣村で生まれ暮らした小林一茶が「これがまあついの棲み家か雪五尺」などとと詠んだのは、信濃教育会編の冬休み宿題帳で一茶のカルタを作って遊んだ時に覚えた。小学校の低学年の遠足は野尻湖、5年生の遠足は信越線を汽車で新潟県高田(上越市)までいき、上杉謙信の春日山城址を見て、そこから鯨波へ出て日本海を見るという行程であった。東京での中学、高校時代には、夏休みによく牟礼村西黒川、戸隠村のおじさん、おばさん家へいとこ達と遊びにいった。 ['96.7.27.]

高校・大学時代

高校時代: 都立西高(卒業生の吉川崇之さんのNISHI HIGH SCHOOL OB & OG LIST、在校生の内藤豊裕さんなどの紺碧同好会を参照)へは国鉄西荻窪駅から通った。昼休みはタッチフットボールをよくやり、クラブ活動は物理部地学班に属していて、昼は太陽の黒点観測、夜は星空の観測をした。現在の宇宙研究部(町田真司さんの宇宙研究部OB会ホームページを参照)が、多分昔の地学班の進化したものであろう。毎日午後4時のNHK気象通報を聞いて気象図を作るため録音用ソニー・テープレコーダーを地学教室から借りられたので、目覚まし時計を利用した自動スイッチ作動装置を発明して、毎週水曜日午後1時間半からの「今週のヒットパレード」(確かニッポン放送)を録音してみんなで楽しんだ。パット・ブーンの「A Love Letter in the Sand」、ポール・アンカの「Diana」、エルヴィス・プレスリーの「Love Me Tender」、パーシー・フェイス・オーケストラの「Twilight Time」などの全盛時代であった。都立西高卒業生NET ['96.6.2.]

東京・三鷹: 学生時代は(とカノープスが語った)東京都三鷹市の野川のほとりに田んぼ、泉、わさび田などがある広大なキャンパスを持つ国際基督大学で過ごした。毎年夏に大学全体で草刈りの日があって、時々あの「チョット来い、チョット来い」と鳴くように聞こえるコジュケイの巣を見つけることもあった。始め生物学を専攻しようと思ったが、あとで物理学に変えた。当時の物理教室は、原島鮮教授(自然科学科長)、Donald C. Worth教授、三宅彰助教授、北村正直講師、今田仁助手、石川光男助手がおられて、まだ理学館がないころであったので本館1階の西側のウィングが授業のたまり場で、クラブ活動のたまり場はD館であった。卒業論文は石川先生の指導で、水溶性の高分子へX線を照射してそのあと細管を落下する速度を測定する実験で、粘度と分子の大きさの変化を推定するものであった。['95.3.3.] ICU Alumni Home Page ['97.5.14]

仕事上、日本と米国で

ピッツバーグ: 上記の英語部分を参照

ドッグウッド: '70年代前半は米国ノースカロライナ州の州都ラーレイ(まわりのアメリカ:NC州を参照)に住んでいた。毎年4月にはドッグウッド(アメリカはなみずき)が白、赤、ピンクの花を咲かせる美しいところであった。ドッグウッドは米国東海岸一帯に咲くもので、3月に南部のジョージア州から始まって、アパラチア山脈を次第に北へ溯り、5月にはニューヨーク、マサチューセッツ州にまで達する。丁度日本の「桜開花予想図」のように、毎年春に「ドッグウッド開花予想図」が東海岸の地元紙、例えば「ニューヨーク・タイムズ」などに掲載される。

米国の首都ワシントンではジェファソン記念館あたりのタイダル・ベースンのまわりで、4月にが美しく咲く。これは日本から贈られて1912年タフト大統領婦人による植樹式が行なわれたものであるが、1915〜17年には米国からアメリカハナミズキ(英語でドッグウッド)が東京市に贈られて、実は日米花の相互交換あった。残念ながら東京のドッグウッドは戦災のためか、戦後の経済復興時期の公害のためかなくなってしまい、国会議事堂の前にある憲政記念公園に相互交換のことが詳しく書いてある。['96.2.19.] 原木は只一つ小石川植物園にあることを、峰与志彦さんが5年にわたる調査の後に、1997年に発見した。['97.5.5]

米国のノース・カロライナ州ラーレイ、ニューヨーク州キングストンとアーモンク。

カナダのケベック州モントリオール市とケベック市。ナイアガラ瀑布とトロント。

川崎:1980年代後半、JR川崎駅を東口に出て、すぐ右にいったところで4年ほど働いた。いま西部・丸井両デパートのすぐ南側である。ビルの10階から線路の向かい側(西側)に「夢見ヶ崎」と呼ばれる小高い丘が見え、市営の動物園もあるながめのいいところである。東海道線からは見えなくてタクシーで行かねばならないが、JR横須賀線の川崎駅からはよく見えなくて、歩いて5分くらい。桜の名勝で、春は樽酒を用意して必ず部門の花見を行なった。

こんな話がある。太田道灌は根っからの武人で、若いころは鷹狩りが大好きだった。ある日雨が降ってきて、近くの農家に蓑を借りに寄ったら、若い娘さんから山吹の花をだまって差し出されて、古今和歌集か何かにある「七重八重、花は咲けども山吹の、実の(蓑)ひとつだになきぞ悲しき」という意味であることを解せず、その後学問にも励んで、江戸城をのもとを築いた、というのは東京都の小学校の子供たちが誰でも習う有名な話。実は、若いころは狩りと称して関東中をナンパして歩いたのだが、江戸城を築く前にいろいろなところでいい場所はないかと探したらしく、ある日多摩川を越えて川崎の現在の夢見ヶ崎にきて、これはいいところだと思い、そこにテントを張って寝た。ところがその夜、建てた城が燃えてしまうという悪い夢を見たので、あきらめて多摩川をまた渡り、現在の皇居があるところに江戸城のもとを建てて、ここへ後に徳川家康が移り、江戸城となり、今日の東京となる。もし道灌が夢見ヶ崎で悪い夢を見なかったら、川崎が日本の中心になっていたかも知れないという話でした。

1997年2月から'98年3月までは、長野オリンピックのサポートで、念願の長野市に引っ越し(始めに市街地 026-235-7710 fax: -235-7750、次に篠ノ井 026-299-5623, fax: -5644、NAOC=長野冬季オリンピック組織委員会 026-225-7768 fax: 225-7790、メインプレスセンター、パラリンピック村、携帯電話: 020-56-44270)ていました。その後、ソフトウェア事業部(東京、03-3808-7223)に勤め、2001年3月に永年勤めたコンピューター会社を定年退職しました。

台湾、中国、アジア、オセアニア、ヨーロッパで

私はヨーロッパへは3度しか行ったことがありません。いずれもアメリカのニューヨーク州に住んでいる時で、1度目は初冬にディスプレイ装置の調査にベルギーで打ち合わせしたのちイギリス・フランス・ドイツ・デンマークを回って、2回目は夏にドイツのシュツットガルト近くで会議に出席する前に、フランクフルトでレンタカーを借りてハイデルベルグ・ライン川下り・シュヴァルツバルト(黒い森)・バーデンバーデン(温泉)・シュツットガルト(ベンツの自動車工場)などを車で回ったもので、3回目は夏休みに家族とPanAmの世界一周旅行を利用してイタリアのミラノ・ローマ・ナポリ、ギリシャのエーゲ海(ミコノス島とデロス島)とアテネを回ったものです。

オーストラリアへは1度行ったことがあり、これは12月始めにシドニー郊外でアジア・太平洋地区の会議があり、そこへ行く途中に香港(プラネタリウム)・シンガポール(やはりプラネタリウム)に寄り、シドニーでは南の星座を初夏だったので夜更けまでプールサイドでたっぷり見ました。台湾・中国以外のアジアへは、インドネシア(バリ島)、マレーシア(チェラティン・ビーチ)へ行ったことがあります。ロシアとアフリカと中南米は行ったことがありません。

台北の光華商場: 1990年から'91年に台湾・台北市に家族を連れて駐在した。台湾の国策会社、資訊工業策進會(III)との合弁会社のあった南京東路と松江路の交差点から、東京の秋葉原に相当する光華商場までは歩いて5分であった。パソコンショップは松江路の橋が台北〜基隆鉄道をまたぐ下にあり、また実際には光華商場への入り口がある八徳路に沿って展開している。近くには「台湾の東工大」である臺灣國立工業專門學校があり、光華商場はおそらくこの大学の需要から始まったのだと思った。

2001年8月末から、中国・大連へ来て、ある大学で日本語会話や日本語を使ったコンピューターを1年教えたあと、今は大連ソフトウェアパーク(大連軟件園梶jで外国企業、特に日本企業の誘致をしています。初志は中国の大連に5年、遼寧省の省都・瀋陽に5年、オリンピック後の北京に5年暮らしたいというのが希望でしたが、大連滞在5年目にコーヒーショップを作ったので、しばらく大連にいます。続く:

日本

時々日本へ帰って、神奈川県藤沢市にある家に泊まります。江ノ島の近くです。

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